【家康改葬(3)】~人生変えた小田原 秀吉による江戸幽閉を逆手に東国支配固める

 産経新聞の歴史関連記事、徳川家康400回忌に合わせた企画『家康改葬』の第3回、宇都宮支局原川真太郎さん執筆の記事の御紹介です。

 一介の浪人から身を起こした北条早雲に始まり、戦国時代に相模を中心として約100年間にわたって繁栄を極めた北条氏。神奈川県小田原市中心部の高台に立つ小田原城は、復元ながら往事の栄華をしのばせる威容をたたえている。
 徳川家康の御霊を奉じた大行列は久能山を出発した後、善徳寺(静岡県富士市)、三島(同県三島市)を経て小田原に到着した。江戸時代に編纂(へんさん)された地誌「新編相模国風土記稿」には、小田原城滞在の記録が残っている。
 小田原は家康にとって、人生の転機となった場所だった。江戸幕府の公式記録「徳川実記」によると、天正18(1590)年、豊臣秀吉が大軍を率いて北条氏を滅ぼした「小田原征伐」に参加した家康は、北条氏の後釜として関東に領地替えするよう秀吉から告げられた。
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東国の雄・北条氏の拠点だった小田原城。家康は小田原攻めの際、秀吉から江戸への移封を告げられた=神奈川県小田原市

 当時、家康の支配地域は東海地方を中心に5国に及んでいた。関東移封(いほう)により秀吉配下の大名の中で最大の領土を得たが、本拠地を離れることになった。背景には、伸長する家康を関東に封じ込めようという秀吉の思惑があった。

 しかも、秀吉が本拠地とするよう示唆したのは、小田原よりさらに東に位置する江戸だった。これも家康は粛々と受け入れている。
 宇都宮市出身の小田原市文化財課長、大島慎一さん(55)は「小田原攻めの時期はまだ、東北が安定していない。娘を嫁がせており北条氏と親戚(しんせき)関係にあった家康が小田原城に拠点を構えるのは危険だと秀吉は判断したのだろう」と話す。
 必ずしも本意ではなかったであろう江戸入り。それでも家康は、有力な家臣を要所に配置するなど、着々と東国支配の地盤を固めていった。小田原攻めが終わらない段階で江戸に家臣を派遣するなどして、現地を調査させていた形跡もあるという。
 家康が、江戸を単なる東国の田舎ではなく、拠点となり得る場所だと認識していた可能性すらある。大島さんは「元々三河を拠点としていた家康は、伊勢湾の水運の関係で江戸が東国の流通の要だと把握していた節があった」と指摘する。

 秀吉は、織田信長の次男で小田原攻めに従軍した織田信雄(のぶかつ)に空いた家康の旧領への移封を命じたが、拠点だった尾張と伊勢に執着していた信雄は拒否。秀吉の怒りを買い、下野・烏山に左遷させられてしまう。
 三河の小勢力だった松平氏の跡取りとして、隣接する織田氏や今川氏の人質となるなど苦難の少年時代を過ごした家康。長い雌伏の時を経て関ケ原の戦いに勝利、豊臣家を圧倒して天下人となったが、幕府を開いた場所は、秀吉に配置換えを強いられた江戸だった。(宇都宮支局 原川真太郎)

*2014.01.24 産経新聞HPより
(http://www.sankei.com/premium/news/150124/prm1501240009-n1.html)

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