【元号の風景】(4)延暦(782~806年)大津市坂本・比叡山 全山焼き討ち、鬨(とき)の声は遠く

 平成から令和へ、新元号がスタートしました。大化以来、幾度かの中断を挟みながらも連綿と続いた元号は、歴史の証人でもありました。産経新聞では、そうした歴史の舞台となった元号の史跡を紹介する連載が始まっております。

 比叡山の麓(ふもと)にある日吉(ひよし)大社の大鳥居のわきに広い駐車場があり、「本家 鶴喜そば 店は角から三軒目→」(「喜」は屋号では「●=品の口がそれぞれ七」)という看板がかかっていた。休日の午後、駐車場は満車だった。

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日吉大社への小道。道沿いには穴太衆積みの美しい石垣が続く

 すくなくとも40年ほどまえには、この看板はなかったのではないだろうか。駐車場を出たところの「角」には、旅宿屋ふうの風情がある建物があり、「坂本名物 日吉そば」の屋号をかかげていた。「角から三軒目」に向かわず、まちがってこの店に入ってしまう客もいたらしい。

 『街道をゆく』を連載中の司馬遼太郎の一行も昭和54年初秋、この駐車場に車をとめ、「鶴喜そば」だと思いこんで「日吉そば」のほうに入ってしまった。シリーズ「叡山(えいざん)の諸道」の「そば」という項によると、司馬は店の娘さんと、こんなやりとりをした。

 「ここは鶴喜ですか、とわかりきったことをきくと、/『ちがいます』/おそらく似たようなあわて者がとびこむことが多いらしく、彼女は石でものみこんだように不快げな表情をけなげにも維持していた」

 さすがに「恐縮」してそばを食べたうえ、「まことに日吉そばに対して失礼なことをしてしまった」とつづく。だが当時でも「日吉そば」の看板やノレンは出ていたはずだから、屋号くらいは確認すべきであろう。 「角から三軒目」の、これまた風情のある木造建築の「鶴喜そば」に向かったが、店頭には30人ほどの行列ができていた。店の娘さんに待ち時間を訊(き)くと、「30分ほどです」。あきらめて「日吉そば」にもどったが、こちらも満員だった。 文芸評論家・小林秀雄のエッセー「無常といふ事」の一節を思いだした。昭和10年代後半、日吉大社を訪れたとき、鎌倉期の法語「一言芳談抄(いちごんほうだんしょう)」の一節が突然、浮かび、「坂本で蕎麦(そば)を喰つてゐる間も、あやしい思ひがしつゞけた」と書いている。この「蕎麦」はどこで食べたのだろうか。

 ◆小林秀雄と司馬遼太郎

 風情のある穴太衆(あのうしゅう)積(づ)みの石垣がならぶ区画を抜け、「日本一長い」がキャッチコピーらしいケーブルに乗って、延暦寺にむかった。伝教大師・最澄(さいちょう)が延暦7(788)年、ここに草庵をむすび、その後、元号の「延暦」を寺号にした。弘法大師・空海の高野山(和歌山県)とはことなり、仏教の総合大学(ユニバーシティ)の役割をはたし、法然や親鸞、日蓮ら鎌倉仏教の「祖」をはじめ、多くの名僧を輩出した。

 平安京に近いこともあり、苦難の歴史を、寺そのものの側にも責任の一端はあったが、なめつづけた。平安期には山法師らが神輿(みこし)をかついで洛中になだれ込む強訴(ごうそ)がたびたびおき、白河(しらかわ)天皇(在位1072~1086年)をして、「賀茂川の水、双六(すごろく)の賽(さい)、山法師、これぞわが心にかなはぬもの」と言わしめた。

 だが織田信長には「わが心にかなはぬもの」などはなかった。元亀(げんき)2(1571)年9月、全山焼き討ちを命じ、根本中堂をはじめ、多くの堂宇(どうう)を焼きはらった。信長の一代記『信長公記(しんちょうこうき)』には「僧俗・児童・智者・上人、一々に頸(くび)をきり、信長の御目に懸(か)くる。(略)御扶(たす)けなされ候へと、声々に申し上げ候と雖(いえど)も、中々御許容なく、一々に頸を打ち落され、目も当てられぬ有様なり」とあり、数千人が殺された、とつづく。

 ケーブルの窓から、木々につつまれた深い谷あいをぼんやりと見おろしていると、「大正末期、ケーブルを建設中に、土中から250体の石仏が見つかり……」という車内アナウンスが流れてきた。眼下の谷は「死の谷(デス・バレー)」だったのだ。


「無常といふ事」には「死んでしまつた人間といふものは大したものだ。何故(なぜ)、あゝはつきりとしつかりとして来るんだらう。まさに人間の形をしてゐるよ」と、知人の川端康成に喋(しゃべ)った、というくだりがあった。

 司馬は歴史小説について問われると、「“完結した人生”をみることがおもしろい」という趣旨の発言を繰りかえした。「完結した人生」とは「死んでしまつた人間」にほかならない。

 『街道をゆく』シリーズとしては、ちょっとミスマッチな「そば」の項は、名エッセーとして知られる「無常といふ事」を意識した、小林へのオマージュ(敬意、賛辞)のように思えてならない。小林は「思想」を紡(つむ)ぐために、司馬は「物語」を紡ぐために、「死んでしまつた人間」ばかりを好んで取りあげた。

 --ケーブルからおりてふりかえると、薄青い琵琶湖がパノラマのようにひろがっていた。山上の人々の人生を“完結”させるために、血走った兵(つわもの)どもが鬨(とき)の声をあげながら、オンナ子供までも容赦なく虐殺していく「目も当てられぬ有様」を貼(は)りつけることなど、とてもできそうもないほど“完結”した眺めであった。 (客員論説委員 福嶋敏雄)

【用語解説】穴太衆積み

 坂本周辺の延暦寺の里坊(さとぼう)や神社、古い民家の石塀(いしべい)などには「穴太衆積み」と呼ばれる独特の石垣が築かれている。穴太衆は坂本の大字(おおあざ)「穴太」に居住し、延暦寺の土木営繕的な役割をはたしていた。石垣は穴太衆の技術によるもので、加工しない自然のままの石面(いしづら)を巧みに積みあげ、しかも堅固であるのが特長とされる。司馬遼太郎も「日本の石垣築きの最高の技術水準を示すもの」と評している。

*2019.01.26 産経新聞より

(https://www.sankei.com/column/news/190126/clm1901260003-n1.html)

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