【元号の風景】(3)神護景雲(767~770年)

 平成から令和へ、新元号がスタートしました。大化以来、幾度かの中断を挟みながらも連綿と続いた元号は、歴史の証人でもありました。産経新聞では、そうした歴史の舞台となった元号の史跡を紹介する連載が始まっております。

 ■栃木県下野市・下野薬師寺跡 「4字」時代に栄華極めた怪僧
 関東ローム層の赤茶色の農地がひろがる小道を歩いていくと、芝が整備され、桜の木々が植えられた広場に出た。2列の礎石(そせき)が規則ただしく延びたさきには、朱色の回廊が復元されていた。空が抜けたようにひろい。那須颪(なすおろし)というのだろうか、這(は)うように吹いてくる風がきつかった。
画像
道鏡が流された下野薬師寺跡。朱色の回廊が復元されていた

 下野(しもつけ)薬師寺跡、7世紀末の建立と伝えられる。『続日本後紀(しょくにほんこうき)』には「下野国申す、薬師寺は天武天皇の建立する所也」とあり、奈良・東大寺なみに格式が高かった。だが東大寺とちがって、いまは跡形(あとかた)もない。
 神護景雲(じんごけいうん)4(770)年9月、初老の僧が護衛にまもられ、薬師寺にやってきた。河内国出身の弓削道鏡(ゆげのどうきょう)である。生年は不明で、このとき60歳前後とみられる。やつれてはいるが、ギラギラした風貌だったころのおもかげくらいは残っていたはずである。
 「別当」という肩書きがついていたが、事実上の配流(はいる)であった。1年8カ月後に亡くなったが、死因は不明である。軟禁状態のすえ、謀殺(ぼうさつ)されたとの説もある。『続日本紀(しょくにほんぎ)』には「死するときは庶人(しょにん)を以(もち)て葬(ほうむ)る」とあり、無位・無官のまま葬られたのであろう。
 「怪僧」や「妖僧」などと称された道鏡の“黄金期”は「天平感宝(てんぴょうかんぽう)」にはじまり、「天平勝宝(しょうほう)」「天平宝字(ほうじ)」「天平神護(じんご)」「神護景雲」とつづいた4字元号の時代と、ほぼかさなる。4字元号は中国の元号を模したもので、22年間におよんだ。
 道鏡が古代史の表舞台に登場したのは、天平宝字6(762)年4月、近江国・保良宮(ほらのみや)で、未婚で独身だった44歳の女帝・孝謙(こうけん)上皇の病(やまい)を、宿曜(すくよう)秘法という術で快癒させたときからである。『続日本紀』には「(孝謙の)看病に侍(じ)して稍(やや)く寵幸(ちょうこう)せらる」とある。

 「寵幸」とは「特別にかわいがられること」(広辞苑)。孝謙天皇が退位したさい、あとをついだ淳仁(じゅんにん)天皇はふたりの仲がスキャンダルに発展することをおそれ、たびたび諫言(かんげん)した。だがかえって孝謙に嫌われ、3年後には廃位のうえ、淡路島に流されてしまった。
 天平宝字8(764)年10月、孝謙は重祚(ちょうそ)してふたたび天皇位(称徳(しょうとく)天皇)につくと、道鏡を最終的には仏教界トップで、天皇に準ずる身分の「法王」にまで昇格させた。
 道鏡は権勢をほしいままにし、天皇のようなふるまいにおよび、貴族や僧侶たちからはすっかり嫌われた。河内男のかなしさか、少々、調子にのりすぎたのである。

 ◆神託事件、そして暗転
 薬師寺跡と接するところに、木々につつまれた薬師寺八幡宮があった。薬師寺の寺内社で、造りはよくわからないが、リッパな社殿であった。参拝したあと、なにげなく横手にまわると、「ど~よ」という感じで、異様なものが鎮座していた。
 石造りの陽物(ようぶつ)が大小2つ置かれていたのだ。まわりには千羽鶴が飾られ、「八幡の金精(こんせい)様」という札がかかっていた。道鏡の流謫(るたく)の地に「金精様」が鎮座している理由は、容易に想像がついた。だが説明ははぶく。
 「法王」位について3年後の神護景雲3(769)年9月、宇佐八幡宮(現・大分県)からの使者が「道鏡をして皇位に即(つ)かしめば天下太平ならむ」という神託があった、と奏上(そうじょう)した。神託は道鏡自身が仕掛けたという説もあるが、真相は不明である。
 称徳は確認のため臣下の和気清麻呂(わけのきよまろ)を宇佐に派遣した。清麻呂は「わが国家開闢(かいびゃく)以来、君臣定まりぬ。(略)天の日嗣(ひつぎ)は必ず皇緒(こうしょ)を立てよ。无道(むどう)の人は早(すみやか)に掃(はら)ひ除(のぞ)くべし」との託宣を聞き、称徳にそのまま奏上した。

 「无(無)道の人」呼ばわりされた道鏡は、いま風の河内弁でいえば、「ナメとんのか、われっ!」と激怒した。清麻呂は「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と改名させられたうえ、九州・大隅国に左遷された。
 だが道鏡の運命は、この神託事件で暗転した。翌年8月、称徳が崩御すると、たちまち失脚し、下野送りが決まった。
 --八幡宮から歩いて10分ほどのところに、龍興寺という古刹(こさつ)があった。境内に道鏡の墓所とされる円墳があったが、道鏡の時代より2世紀ほどまえの築造とされる。案内板には「(道鏡は)各地で積極的に巡錫(じゅんしゃく)や親教(しんきょう)をし、多くの人々を教化(きょうげ)されました」とあるが、史料的に道鏡の下野時代はまったくの不明とされる。葬られた正確な場所も分からない。
 那須颪が吹きすさぶ関東ローム層のどこに、皇位を簒奪(さんだつ)しそこなった河内男は眠っているのだろうか。(客員論説委員 福嶋敏雄)
 次回は26日掲載「延暦」
 ■由義宮 道鏡の出身地・河内国若江郡(現・大阪府八尾市)には由義宮(ゆげのみや)という離宮が造られ、「西京(にしのきょう)」と定められた。称徳は神護景雲4(770)年2月から4月にかけて行幸したが、このときの歓迎ぶりがハデだった。「続日本紀」によると、渡来氏族の男女230人が青摺(あおずり)の衣に紅(あか)く長い紐(ひも)を垂らし、2列にならんで歌い、踊った。「日本のレゲエ」と呼ばれる河内音頭のルーツなのかもしれない。

*2019.01.19 産経新聞より
(https://www.sankei.com/column/news/190119/clm1901190004-n1.html)

この記事へのコメント


この記事へのトラックバック