【明治の50冊】番外編 エルウィン・ベルツ『ベルツの日記』

 明治150年にあたる平成30年、産経新聞社では明治年間に書かれた先達の作品を紹介していきます。著作権も切れ、ともすれば忘れがちになる古典をもう一度再認識させてくれる好企画です。

 ■異邦人の透徹したまなざし
 4月上旬、入学式前の東京大学本郷キャンパス(東京都文京区)は閑散としていた。ほぼ満開の桜を眺めながら、夏目漱石の『三四郎』(新潮文庫)の記述を手がかりに歩いていると、その銅像は見つかった。
 《二人はベルツの銅像の前から枳殻(からたち)寺の横を電車の通りへ出た。銅像の前で、この銅像はどうですかと聞かれて三四郎は又弱った》
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東京大学にあるベルツの銅像=東京都文京区

 郷里・熊本の先輩、野々宮から問われ戸惑う三四郎。今春入学する東大生も100年以上前の三四郎と同様、銅像の前で戸惑うのか。それとも気にも留めず通り過ぎるのだろうか。
 南ドイツに生まれたエルウィン・ベルツはお雇い外国人として東大で26年にわたり医学教育に従事。数多くの人材を育てた功績などから「日本の近代医学の父」と称され、歴史の教科書などでもおなじみだ。特に日本滞在の29年間をつづった『ベルツの日記』は、世界にデビューする明治日本の世相を知る上で重要な資料であり、昭和54年発行(改訳)の岩波文庫版は平成30年4月時点で9刷と今でも版を重ねている。
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『ベルツの日記』(岩波文庫)

 翻訳した菅沼竜太郎のあとがきによると、日記はベルツと日本人の妻との間に生まれた息子トク・ベルツが編集。昭和14年、日独文化協会が刊行、18年には一部を割愛して岩波文庫から出版され、戦後大幅に再編集されたという。
 上下巻で計約800ページの日記には皇族や政府高官、市井の人々らとの交流などがつづられ、内容は「まことに奔放自在」(あとがき)。国際情勢から日本人気質、政府高官の最期など多岐にわたり、鋭い洞察やユーモア、皮肉もちりばめられている。
 例えば、明治22年2月9日には、憲法発布前の“空騒ぎ”が記される。
 《東京全市は、十一日の憲法発布をひかえてその準備のため、言語に絶した騒ぎを演じている。到るところ、奉祝門、照明、行列の計画。だが、こっけいなことには、誰も憲法の内容をご存じないのだ》
 医学教育分野も手厚い。日本医学大会での自らの講演内容を収めた35年4月2日の日記は、いわば「遺言」だ。専門主義の傾向に触れ《全般的研究と自己の専門領域との関係を知ることは特に価値があるわけです》と警鐘を鳴らす。

 ベルツの熱量がこもるのは日露戦争(37~38年)前後のくだりだ。
 満州や朝鮮半島での主導権をめぐって対立していた日本とロシア。外交の駆け引きが長期化し、宣戦布告直前となった37年2月7日の日記には、ベルツの興奮や焦燥が伝わる。《交渉決裂 戦争! さあ戦争だ-ないしは、戦争も同然だ》
 一方、緊張状態の中でも落ち着いた様子の日本人の描写も。同9日には、知人の教授の葬儀に参列した際の話として《日本人同志でも、そんなこと(戦争のこと)は語り合わないようだった。この自制ぶりには全く驚嘆のほかはない》としている。
 日本と同盟を組む英国や日本に好意を示す米国が、本音では日本の勝利とその後の大国化を警戒していること、祖国ドイツが世界で孤立を深めていくことへの危惧も再三記され、国際情勢への関心もにじむ。
 明と暗のコントラストも巧みだ。38年1月2日の日記にはロシアの基地がある旅順が陥落し、《日本にとって、なによりも素晴らしいお年玉》と祝う一方、《この正月二日は、うれしくない日だった。臨終のスクリバに付き添って、完全に徹夜したのだから》。翌3日、ドイツ外科医として長年東大で教えた親友、スクリバは亡くなった。東大のベルツの銅像の隣には、スクリバの銅像が並び、今も学生たちを見守り続けている。
 ベルツの透徹したまなざしで再現される明治日本の実相。『ベルツの日記』は単なる日記ではない。(花房壮)
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【プロフィル】エルウィン・ベルツ
 1849年、南ドイツで生まれる。1876年、お雇い外国人医師の一人として来日、東京大学医学部で内科教師として26年間、学生の指導と診療に当たった。群馬・草津などの温泉地での療養環境整備を助言し、宮内省御用(侍医)も務めた。1905年、ドイツに帰国し、13年に死去。

*2019.04.08 産経新聞より
(https://www.sankei.com/life/news/190408/lif1904080017-n1.html)

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