【明治の50冊】番外編 陸奥宗光『蹇蹇録』 国益を見据えた外交記録

 明治150年にあたる平成30年、産経新聞社では明治年間に書かれた先達の作品を紹介していきます。著作権も切れ、ともすれば忘れがちになる古典をもう一度再認識させてくれる好企画です。

 老舗料亭は歴史の目撃者になることがある。平成30年12月、天才棋士の羽生善治九段が27年ぶりに無冠に陥った対局場所の春帆楼(しゅんぱんろう)(山口県下関市)は、日清戦争(明治27~28年)の講和会議の舞台でもあった。
 極東の均衡に決定的な影響を与えた世界史的事件の経緯を詳述したのが当時の外相、陸奥宗光による『蹇蹇(けんけん)録』だ。中国古典『易経』にある「蹇蹇匪躬(ひきゅう)」からとられ、「自分を省みず苦労し、全力を尽くして君主に仕える」といった意味である。
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陸奥宗光『蹇蹇録』

 同書の脱稿は28年12月末だが、一般の目に触れるのは、30年余り経過した昭和4年、岩波書店から『伯爵陸奥宗光遺稿』が刊行されて以降のことだ。関係者らに配慮したとみられる。
 陸奥による回想録は「日本外交の記録として白眉」(北岡伸一東大名誉教授著『日本政治史』)と評価が高い。当時から政治指導者らに親しまれ、昭和58年発行の岩波文庫版は現在15刷。大学授業の必読文献に挙げられることもある。
 最大の魅力は、叙述のスタイルにある。陸奥は単なる公文書に基づく「実測図面」ではなく、「当時外交の写生絵画を作らんとするにあり」と記しており、実際、臨場感あふれる筆致などが彩りを添える。
 例えば半島情勢に関心を持つ英露の温度差については「露国は終始舞台の一隅に隠見し一個の演技者として動作したるも、英国は舞台の外にありて演芸に対し種々の批評を試みたる熱心なる看客たるに過ぎざりし」と巧みに描く。
 講和会議に出席するため来日中だった清国全権の李鴻章が日本人に狙撃された際、陸奥がみせた機転も読みどころの一つ。負傷した李に国内の同情が集まったのを機に、連戦連勝により戦争継続を求める世論が沈静化したと判断、伊藤博文首相と協議し、休戦に持ち込んだ。「カミソリ」の異名を取った陸奥の面目躍如たる対応といえる。
 『蹇蹇録』を通じて陸奥の主眼が、独仏露による三国干渉にあったのは明らかだろう。全21章のうち最後の3章分を三国干渉に当てたことからも、陸奥の“熱量”が伝わってくる。

 清からの遼東半島の割譲などを中心とする下関条約を調印した日本国内は戦勝気分に浸っていたが、その直後の三国干渉で急転。膨大な犠牲を払って獲得した遼東半島の返還に「戦争における勝利は外交において失敗せりといえる攻撃の喊声(かんせい)は四方に起り」、矛先は陸奥らに向けられた。それに対し、「他策なかりしを信ぜんと欲す」との有名な言葉で弁明した。
 陸奥はなぜ回想録を残したのか。「三国干渉を失態と批判する声への反論の書をまとめ、次の政治的台頭を見据えていたからです」と話すのは、『陸奥宗光』(中公新書)を昨秋出版した明治学院大の佐々木雄一専任講師だ。
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陸奥宗光

 陸奥の資質に負うところが大きいとされた『蹇蹇録』の誕生について、佐々木氏は「戦争対応などで体調が悪化し療養中だったが、口述筆記ができる程度の体力はあり外交機密などのリソースを使える外相の地位にもあった。こうした条件が偶然重なったことは見逃せない」と指摘する。
 奇跡的に誕生したともいえる外交記録。佐々木氏は「脚色はあるが、中枢の政治指導者がどういう思考で決断したのか、その跡を知ることができ、現代の外交情報リテラシーを得るための体力作りにもつながる」と話す。19世紀末と同じく、朝鮮半島情勢が東アジアの政治環境を揺さぶる現在、陸奥の残した遺産は今も読み継がれるべきだろう。(花房壮)
 次回は8日、番外編の『ベルツの日記』です。
【用語解説】陸奥宗光(むつ・むねみつ) 天保15(1844)年、現在の和歌山市に生まれる。幕末、海援隊に参加。明治期は兵庫県などの知事、大蔵省租税頭などを歴任。11年、西南戦争に乗じて政府転覆を謀ったとして5年間入獄、出獄後は外務省に入り駐米全権公使に就任。外相時代に日清戦争の処理に尽力したほか、明治維新以来の悲願だった不平等条約の改正(領事裁判権の撤廃)を実現した。30年8月、53歳で死去。

*2019.04.01 産経新聞より
(https://www.sankei.com/life/news/190401/lif1904010008-n1.html)

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