【明治の50冊】(49)谷崎潤一郎『秘密』 都市の記号で綴る日常の異界

 明治150年にあたる平成30年、産経新聞社では明治年間に書かれた先達の作品を紹介していきます。著作権も切れ、ともすれば忘れがちになる古典をもう一度再認識させてくれる好企画です。

 現実をありのままに描こうとする自然主義文学の隆盛にあらがうようにして、谷崎潤一郎は奇抜な設定を用いた耽美(たんび)的な小説を相次ぎ送り出す。明治44(1911)年、総合雑誌「中央公論」11月号に掲載された『秘密』もそんな初期短編のひとつ。現実とも幻ともつかぬ男女の交流を描く一作は、時を経るにつれて重みと輝きを増していく。
 強い刺激を求めて探偵小説や性科学の書物を読みふける主人公の「私」は変装の快楽を知り、夜ごと女装しては浅草の周辺を歩くようになる。ある晩、映画館の中で、以前関係を持った女に偶然出くわし正体を見破られた「私」は求められるままに女の隠れ家に通いだす。女の秘密を守るため、目隠しして人力車に乗る、という趣向で。お互いの名前も住所も知らないまま、夢の中の出来事のような密会を楽しむ2人。やがて、女の秘密に対する好奇心が「私」に芽生え、関係は転機を迎える-。
 発表当時の谷崎は25歳。作家活動を始めてからまだ間もなかった。ただ、同じころ「三田文学」に掲載された評論で、作家の永井荷風は「刺青(しせい)」「少年」といった初期作品群を激賞。▽肉体的恐怖から生ずる神秘幽玄▽全く都会的たる事▽文章の完全なる事-の3点を挙げ、谷崎文学の新しさをたたえた。その美質は『秘密』にも当てはまる。
 「都市の風俗を巧みにとり入れながら、現実ではとてもあり得ないような『おとぎ話』を想像力豊かに紡ぐ。リアリズムに重きを置く自然主義文学の影響がまだ強い時代だったので、周囲から浮いたのは容易に想像できる」と話すのは『決定版 谷崎潤一郎全集』の編集委員も務めた千葉俊二・早稲田大名誉教授。主人公の「私」が子供時代を回想した場面はとくに興味深いという。何度もお参りしている深川の八幡(はちまん)様で、あるとき「私」は父に連れられて境内の裏手に初めて足を踏み入れる。見慣れない川や渡し場があり、その先に地面が果てしなく続く〈謎のような光景〉を前に、「私」は不思議な迷子感覚にとらわれる。
 「私たちは普段、物事の正面しか見ていない。でも見慣れた世界の裏側には、想像を刺激する未知の異空間が存在する。当たり前の世界に退屈しきった感覚を活性化してくれる『日常の中の不思議な別世界』を今の私たちも心のどこかで求めている。その意味でとても現代的な話です」

 都市にある異界をすくい上げる視線は、江戸川乱歩の手による奇想あふれる見世物(みせもの)小屋のような一連のミステリー小説にも影響を与えたとされる。谷崎が初期に書いた7短編を収めた新潮文庫版『刺青・秘密』は昭和44年に刊行され、現在88刷78万3千部に達している。
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『秘密』が収められた文庫本(芦屋市谷崎潤一郎記念館提供)

 緊張感を増幅させる映画館の闇。男女の情事を演出する人力車のスピード。街中にある、意味ありげな印形(いんぎょう)屋の看板…。『秘密』には近代都市を彩る小道具がちりばめられ、物語に鮮やかな色彩を添えている。
 「『秘密』はさまざまな文化的な記号が織りなす華麗な物語。文学史の中では比較的目立たない作品だったけれど、1980年代以降、研究者が好んで読解を試みるようになった」と千葉名誉教授。時代ごとに新たな読みを誘う懐の深さも魅力かもしれない。
 今年2月に死去した日本文学研究者、ドナルド・キーンさんも自著『日本文学史 近代・現代篇』(徳岡孝夫訳)のなかで書いている。〈二十世紀の日本文学の中に時の試練に耐え世界的な器量を持つ作家がいるとすれば、それは谷崎ではないかと考えるものである〉 (海老沢類)
 次回は25日、『善の研究』(西田幾多郎)です。
【プロフィル】谷崎潤一郎
 〈たにざき・じゅんいちろう〉明治19(1886)年、東京・日本橋生まれ。東京帝大国文科中退。43年に第二次「新思潮」を創刊し「刺青」などを発表。以降、『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』『鍵』などの名作を送り出す。昭和24年に文化勲章受章。39年には日本人として初めて全米芸術院・米国文学芸術アカデミー名誉会員に。40(1965)年に79歳で死去。

*2019.03.18 産経新聞より
(https://www.sankei.com/life/news/190318/lif1903180012-n1.html)

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