【明治の50冊】(46)長塚節『土』 貧農の世界、徹底した描写

 明治150年にあたる平成30年、産経新聞社では明治年間に書かれた先達の作品を紹介していきます。著作権も切れ、ともすれば忘れがちになる古典をもう一度再認識させてくれる好企画です。

 歌人、小説家の長塚節が渾身(こんしん)の思いでつづった長編小説『土』。関東平野東部を流れる鬼怒川べりの農村を舞台に、小作人・勘次一家の貧しい生活と取り巻く自然、人、風俗などを描き、明治43(1910)年、東京朝日新聞に連載後、春陽堂から出版された。
 茨城県岡田村(現・常総市)国生(こっしょう)あたりの農村に暮らす勘次と妻、お品、娘のおつぎ、幼い与吉の一家。折り合いの悪い義父・卯平は奉公に出ている。勘次も畑だけでは暮らせず、土木工事に出て、お品も行商などで糊口(ここう)をしのぐ日々。
 だが、身ごもった子供を自分でおろした処置が悪く、お品が急死する。お品の代わりにおつぎを厳しく仕込む勘次。貧しさゆえの盗みや嫉妬、欲など屈折した感情にまみれながらおつぎ、与吉は成長、暮らしも安定するが、勘次と卯平の葛藤は続き、また悲劇が…。
 「農民文学の記念碑的作品」とされる名作も、連載時の反応は芳しくなかった。編集担当の森田草平は「極めて読者受けが悪い」と回想(平輪光三著『長塚節 生活と作品』)。無名の節を起用した文芸欄主任の夏目漱石も、単行本序文で「面白いから読めとは云(い)い悪(にく)い」「読みづらい」「泥の中を引き摺(ず)られるような気がする」とも。
 それでも、当時の東京朝日主筆、池辺三山は森田に「あれは聢(しっか)りしたものだ、(不評に)構はず続けろ」、漱石も「今の文壇で長塚君を除いたら(中略)誰にも書けそうにない」と評価し、『土』は世に出た。

 現在、昭和25年刊の新潮文庫版が84刷、45年刊の岩波文庫版で15刷とロングセラーに。ただ、漱石もいうように、読者を引き込んでいく筋のおもしろさには欠け、「茨城言葉」の方言でわかりにくいのも事実。
 「確かに読みづらく、私らでも何言ってんだかわからないものもある。最後まで読み切れる人は少ないと思う」と地元にある長塚節研究会の河合宏さん。研究会は節研究で知られる平輪光三を会長に学者や節ファンらで43年に発足。河合さんは父の後を継ぎ、2代で事務局長を務めている。
 『土』の魅力について河合さんは、「明治も40年たったころの農家の生活を赤裸々に描いたこと。それも空想でなくモデルがいる話、まさにノンフィクションなんです。節には貧農の世界を世に知らしめたいとの思いがあったのでは」と見る。
 節は師・正岡子規からの手紙で、〈君ハ自ラ率先シテ君ノ村ヲ開カネバナラヌ〉などと激励された。その後、青年会会長として村の発展に尽力したが、『土』執筆も、その延長線上にあると河合さん。
 また、子規が提唱した写生文の試みを取り入れ、徹底したリアリズムともいえる情景描写も作品を際立たせた。
 〈春は空からそうして土から微(かすか)に動く。(中略)水に近い湿った土が暖かい日光を思う一杯に吸うてその勢いづいた土の微かな刺戟(しげき)を根に感ぜしめるので、田圃(たんぼ)の榛(はん)の木の地味な蕾(つぼみ)は目に立たぬ間に少しずつ延びてひらひらと動き易(やす)くなる〉
 岩波文庫の解説で文芸評論家、小田切秀雄は「驚くべき執拗(しつよう)な観察・実験・追及と、こくめいきわまる描写の筆力」「表現にあらゆる文学的情熱が傾けられている」と評した。ほとんどが実話というだけに、凄(すご)みも増すはずだが、その分、当事者ら地元では、節への反感も長くあったという。
 そんな恩讐(おんしゅう)を越え、節の没後100年以上を経た今、再び漱石の序文から-。
 「余はとくに歓楽に憧憬(どうけい)する若い男や若い女が、読み苦しいのを我慢して、この『土』を読む勇気を鼓舞する事を希望する」
 まさに読み継がれるべき作品ではないか。(三保谷浩輝)
 次回は3月11日、『一握の砂』(石川啄木)です。
【用語解説】ながつか・たかし
 明治12(1879)年、茨城県国生村(当時)の豪農の家に生まれる。水戸中学(現・水戸一高)を病気のため中退後短歌をはじめ、33年、正岡子規に入門。子規死後の36年、伊藤左千夫らと歌誌「馬酔木(あしび)」創刊。写生文も手掛け『佐渡が島』、小説『芋掘り』などで注目される。43年に東京朝日新聞で『土』を連載、45年に単行本として出版。連載後に患った結核が悪化し、大正4(1915)年に死去。

*2019.02.25 産経新聞より
(https://www.sankei.com/life/news/190225/lif1902250014-n1.html)

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