NOBUNAGA(22)行動して後悔せよ。抜け殻でなく、魂かよう人間ならば
不覚である。お師匠(マキャベリ)様(さん)と同様、筆者も「楽市楽座」は、織田信長のオリジナルだとばかり思っていたのだが…。
《これらの市場や町(農村の市場や町、寺院の門前町、寺内町など)は、自由な商業取引を原則とし、販売座席(市座(いちざ))や市場税などを設けない楽市として存在するものが多かった。戦国大名は楽市令を出してこれらの楽市を保護したり、商品流通をさかんにするために、みずから楽市を新設したりした》
山川出版社発行の高校生用教科書『詳説日本史(日本史B)』の記述なのだが、これが「楽市」の初出である。「戦国大名」とある。しかし信長の名はない。それよりなにより、この記述では、楽市は民衆の自由な商取引の過程で自然に誕生・発展していったもので、戦国大名は権力者としてそれを追認したり利用したりする役割しか果たしていないことなる。
ちなみに楽市に関して信長が登場するのはそれから9ページ後。《安土城下町に楽市令を出して、商工業者に自由な営業活動を認めるなど、都市や商工業を重視する政策を強く打ち出していった》という記述とともに安土楽市令の読み下し文が掲載されている。安土城跡で=滋賀県近江八幡市(関厚夫撮影)◇これは研究者の間では戦前から知られていたらしいのだが、史上初の楽市令は天文18(1549)年。後に「反信長網」の中核をなす六角義賢(よしかた)(承禎(じょうてい))の父、定頼の時に領国・南近江の石寺新市に「紙商売」について《楽市を為(な)すの條、是非に及ぶべからず》と布告したこととされている。
このとき、信長は16歳(数え)。『信長公記』によれば遊興にふけることなく、武芸や心身の鍛錬、兵法の習得に励む一方、だらしない風体と態度で町を練り歩き、「大うつ気(け)」と陰でささやかれはじめたころだった。
信長の楽市令については数種が確認されている。安土城下あては天正5(1577)年で、その最後発となる。
「信長初」は永禄10(1567)年で岐阜城下、その名も「楽市場」あて。翌年には同じ城下の「加納」にあてている。一方で信長との桶狭間合戦で敗死した今川義元の跡を継いだ氏真は信長の「初楽市令」の前年にあたる永禄9年に「富士大宮楽市令」を出している。「山川の日本史」の記述はこうしたことをふまえているのだろう。
《君主は、市民たちが商業、農業、その他いっさいの業務について、それぞれの職責を安心して果たせるように鼓舞しなければならない。また、市民が、君主にとりあげられるのがこわさに、自分たちの財産をりっぱなものにすることを恐れたり、重税こわさに、商取引きを行うのをさしひかえたりしないように、注意をはらわなくてはならない》(※1)。お師匠様は『君主論』でこうのたもうている。
『信長公記』が〈天下のため、かつ領国内を往来する旅人へのご憐愍(れんびん)ゆえ〉に断行し、〈都の者も片田舎の者も貴賤(きせん)なく「ありがたいことだ」と感謝奉った〉と記した「関所の撤廃」(永禄11年)はその好例だろう。信長の独創ではないことは差し引かねばならないが、楽市令もその仲間に入れてもよかろう。
しかし、前回、お師匠様がこの2つの経済政策とともに成功例の一つとして挙げた「撰銭令(えりぜにれい)」は残念ながら全く事情がちがうのである。◇撰銭令は、唐朝以降の中国からもたらされた銅銭と国内外の模造銅銭の使用基準や交換比率を定めたもの。貨幣の円滑な流通、また自己利益をはかるため室町幕府や戦国大名も発令している。
別に信長には通貨としての金銀の流通を抑え、米を通貨代わりに用いる慣習を断とうとする意図があったようだが、研究者の評価は《銅銭については奏功しなかったといえる》(奥野高廣氏)、《まったく遵守(じゅんしゅ)されずに終わった》《時代の趨勢(すうせい)は(中略)金・銀・米が貨幣として使用されつつあったのであり、その流れを信長も止めることはできなかった》(ともに川戸貴史氏)とさんざんである。
この撰銭令による経済混乱の波が直撃したのが信長の新首都・岐阜だった。
撰銭令が出されてまもない永禄12年初夏、岐阜を訪れた宣教師、ルイス・フロイスは《同所における商売と喧騒(けんそう)はバビロンの混雑であり、(中略)取り引きや雑踏のため家の中では互いの声が聞こえないほどで、賭博をする者や食事をする者、或(ある)いは売買する者、また、荷を造ったり解いたりする者が昼夜ともに絶えない》と報告している。
ところが、それから半年後、公卿(くぎょう)、山科言継(やましな・ときつぐ)はこの年2度目の訪問となった岐阜で〈宿泊先が言うには「美濃中で、とくに悪銭に関係して商売が止まっているので、出す酒がない」ということだ〉と書き残している…。
「浅い、浅い!」
いつにない冷笑-すごみというべきか、憤怒を押し隠しているというべきか-をたたえたお師匠様が現れた。
「おれさまの座右の銘を知っているか? 『行動して後悔するほうが、行動せずに後悔するよりましである』-わが故郷フィレンツェが生んだ大詩人、ボッカチオの一節だ(※2)。またおれさまの親友、グイッチャルディーニは言っている。
『苦労も危険も金も意に介さない-この燃焼しつくすような刺激をもたない人間の行動など、魂のかよわぬ抜けがらである』(※3)とな。これぞまさに信長の行動規範じゃないか!」
「それ(精神論)とこれ(史実)とは話がちが…」と反論のため開きかけた筆者の口をお師匠様は有無を言わさぬ目力で封じた。
「まずは困難にひるまず行動すること、そして少々失敗しようが、二番煎じであろうが、全体としてその人間の業績を評価すること-だ。だいたい、聖人君子でもその一生をみれば完全無欠ではない。もしそうなら人間として何の面白みもなく、かえって言うところに説得力がないわ!」(編集委員 関厚夫)◇※1 中央公論社『世界の名著21 マキアヴェリ』
※2 筑摩書房『マキァヴェッリ全集6』一部編集
※3 講談社学術文庫『フィレンツェ名門貴族の処世術』一部編集
*2017.05.07 産経新聞より
(http://www.sankei.com/life/news/170507/lif1705070013-n1.html)
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井出浩司