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zoom RSS 【マキャベリ流−是非に及ばず】(54)

<<   作成日時 : 2018/04/20 23:28   >>

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 日本史に関する記事では定評のある産経新聞、今回は数々の著作もある論説委員の関厚夫さんが、マキャベリをとおして日本史を語ります。必見です。

NOBUNAGA(54)本能寺の変編 支配権への欲望は、ただの復讐心よりはるかに大きい

 「上様(織田信長のこと)にどれほど優れた武備で毛利討伐に赴くのかをお見せする。みなの者、鉄砲の火縄、また槍(やり)を準備せよ!」
 天正10(1582)年6月2日(旧暦)未明。そんな下知が東進する明智光秀率いる全軍1万数千人に伝わった。それまで、ただでさえ戦場となる中国地方−西へと進路をとらぬことに困惑していた兵士たちに驚きが広がった。
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明智光秀の居城にちなんだ琵琶湖西岸の坂本城址公園で。夕景に光秀像(左)が浮かぶ(関厚夫撮影)

 「信長様の指示で上京中の三河の太守、徳川家康殿を討ち果たすのではないか」と、考える者もいた。そして、桂川を越え、都の中心まであと4キロとなったとき、全軍に再び下知がもたらされた。
 「今日よりわが殿は天下様におなりになる。下々に至るまで奮え! 喜べ!」
 以上、桂川までのくだりはイエズス会宣教師、ルイス・フロイスが本能寺の変の直後にまとめた「信長の死に関する報告書」、最後半は江戸時代初期の成立、信憑(しんぴょう)性についてまずまずの評がある『川角(かわすみ)太閤記』による記述だ。
 当初流れた「狙うは家康の首?」という噂は、実際に従軍したという本城惣右衛門の「覚書」にも記されている。敵を欺くには味方から。光秀による「偽(フェイク)ニュース」−情報操作だったのだろう。

 《陰謀の仲間が三、四人を超すようなとき、露見しないようにすることは、たいへんむずかしい。なぜなら、露見の原因となるのは裏切り、不注意、軽率であって、人数がふえるとこれを防ぐ手だてはなくなるからだ》(※1)
 お師匠(マキャベリ)様(さん)はまた「一人の親玉を狙っても成功しにくいのに二人の大物に対する陰謀の成功例は皆無である」なんてことをのたまっている。
 フロイスの著述や『川角太閤記』、また太田牛一著『信長公記』によると、光秀は1日午後、進発の前後に5人の近臣(フロイス説では4人)に「敵は本能寺にあり」と明かしている。ならば信長と嫡子の信忠暗殺に成功した光秀は日本史どころか世界史上の謀反人といえる。
 ただそれゆえ、縁やゆかりは秘匿され、抹殺されたのだろう。父親の名前も不明とされる戦国の梟雄(きょうゆう)、松永弾正と同様、出自や生年をはじめとして、「美濃の名門・土岐氏の庶流らしい」ということ以外、光秀の前半生には分からないことがきわめて多い。
 生家は没落し、壮年期の後半に至るまで流亡の日々だったという。信長の宿敵となる越前の戦国大名、朝倉義景のもとに身を寄せた後、室町幕府の最後の将軍、足利義昭に仕えつつ、信長にも仕えた。

 “信長専任”を決断後は、わずか10年で「近畿管領」にのしあがる。その配下の一人、細川藤孝(幽斎)は旧主だったともいう。光秀は、乱世と下克上を体現する存在だった。
 光秀の書状や法度・軍法類は170点あまりが知られている。それらを読んで浮かび上がってくるのは、何とも複雑な人間性である。
 合戦で傷を負った配下にあてた情にあふれる手紙がある一方で、家中法度では路上での他家の家来との口論を厳禁し、理由のいかんによらず、違反者については自刃しなければ成敗する−とする。また信長の近臣とすれちがうさいには「道を譲り、慇懃(いんぎん)に畏(かしこ)まってお通しせよ」である。
 また、皇室関係領を侵食したことを足利義昭にとがめられたさい、「頭を丸めておわび申し上げます」と書面では平身低頭しつつ、裏では現状維持を画策していたという。細心・繊細さと無類の厚顔が同居しているとの観がある。
 もう一つ見逃せないことがある。表現やにじみ出る性格が「信長」を感じさせるのだ。

 たとえば天正7年9月、丹波国の国領城を陥落させたとき、光秀は「三カ年以来の鬱憤を散じ候」と記している。「近年の鬱憤を散じ候」とはその数年前、信長が宿敵・浅井長政・朝倉義景勢を滅したさい、また難敵・武田勝頼軍を一蹴した長篠の合戦の後、細川藤孝らに送った戦勝報告書での感慨である。
 「仰木の事は是非共(ぜひとも)なで切りに仕るべく候」−。元亀2(1571)年9月、光秀は比叡山延暦寺焼き打ちの直前に近江の豪族、和田氏への書状でそう宣言している。
 「仰木」とは比叡山の北東に広がり、延暦寺の反信長勢力の拠点の一つとされる仰木庄のこと。光秀は当時延暦寺から南へ4キロほどにある宇佐山城主だった。「焼き打ち」に対するなみなみならぬ意欲がうかがえる。
 また、丹波国を代表する山城の八上城を陥落させる直前の書状によると、城側は再三再四、助命を嘆願してきたが、光秀はこれを拒否。兵糧攻めで城内の餓死者が400〜500人に達し、生存者も顔が青ぶくれしてもはや人間とは思えない様子でも、「一人も取り洩さず必ず討ち果たす」「生物の類、悉(ことごと)く首を刎ねるべし」と通達している。

 「叡山焼き打ち」では信長と一心同体、八上城や仰木攻略では長島一向一揆や反臣・荒木村重の妻妾や子弟に対する信長の処断をほうふつさせる苛烈さがある。
 そして「是非に及ばず」。信長はこの言葉や「是非無し」などの表現を、当時の戦国武将としては例外的に「言語道断」「けしからん」といった意味で使っていた。その数は多くはないが、光秀もまた、「是非無し」を同じ意味で使っている。
 「要するにお前は−」
 おっと遅ればせながらお師匠様のご登場である。
 「信長と光秀は一つ穴の狢(むじな)。だからこそ愛憎半ばし、自分の半身である信長を片付けてしまえば、天下は自分のものになると考えた、と言いたいのか? 何? おれさまも『支配権を手に入れようとする欲望は、ただの復讐(ふくしゅう)欲にくらべて、同じように大きいものか、あるいははるかに大きいものである』(※2)と言っている? 不届き者! すかすかの議論を印象操作するために畏(おそ)れ多くも師(マエストロ)の名言をもちだすんじゃねえ!」(編集委員 関厚夫)
 ※1、2 中央公論社『世界の名著21マキアヴェリ』所収『政略論』 ※1は一部編集

*2017.12.17 産経新聞より
(http://www.sankei.com/life/news/171217/lif1712170018-n1.html)

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