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zoom RSS 【マキャベリ流−是非に及ばず】(52)

<<   作成日時 : 2018/04/08 23:03   >>

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 日本史に関する記事では定評のある産経新聞、今回は数々の著作もある論説委員の関厚夫さんが、マキャベリをとおして日本史を語ります。必見です。

NOBUNAGA(52)本能寺の変編 人間とはいたって移り気で、善人さえも悪人へと変化する

 突然だがここで、「織田信長・豊臣秀吉と部下」をテーマに少し考えてみたい。
 自意識も自己主張も強く、結構周囲とは摩擦を起こしやすいタイプ。高じて戦線を離脱してみたり、勝手に敵将と和解してみたりと、秀吉は上司・信長にとって決して扱いやすい部下ではなかった。
 一方、仕事面では「10」をまかせれば“倍返し”を旨とし、「これ」と思った人物、特に信長の心をつかむことにたけている。たとえば前代未聞の豪勢なお歳暮。実子がないため信長の四男、於次丸(おつぎまる)を「羽柴秀勝」として養子に迎えたこともその一つだ。
 《栄誉、位階、声望においてはるかに己(おの)れを凌(しの)ぐ領主たちがいたにもかかわらず、彼は無類の狡猾(こうかつ)さ、物怖(ものお)じせぬ度胸、深慮、独特の手腕、さらにまた綿密な計略を用いることによって、それらの諸侯を籠絡し、短期間に彼らの大部分を配下に従えるに至った》
画像
豊臣秀吉の少年時代を題材にした銅像群「日吉丸となかまたち」=名古屋市・中村公園(関厚夫撮影)

 イエズス会宣教師、ルイス・フロイスの『日本史』の記述である。「伴天連(ばてれん)追放令」を発した“天敵”秀吉を批判しつつ、そのすごみを伝えている。だからこそ信長に認められ、本能寺の変後は信長仕込みの上司として部下を統率し、天下人への道を切り開くことができたのだろう。が、問題はその後である。

「多くの老人は行動の上ではさほどのことではなくても、心の中では残忍で好色であり、さらに青年にくらべて死をこわがる存在である。なぜなら、長生きすればするほど、この世のことがらに愛着をつのらせ、それにひきずられることがいっそう多くなってゆくからである」
 お師匠(マキャベリ)様(さん)の親友、グイッチャルディーニはそう書き残している。ずいぶんひどいことを言うものだが、お師匠様の小論文によると《人間というものはいたって移り気であって、善人さえも悪人へと変化してしまう》(※1)。なるほど後継指名していたおいの関白・豊臣秀次とその妻妾(さいしょう)や子女、近臣を粛清したことをはじめ、こと50代半ば以降の秀吉を考えると…。
 別の「老いた麒麟(きりん)・秀吉」の例としてキリシタン大名、小西行長の重用がある。
 行長は、文禄の役(第1次朝鮮出兵)の先鋒(せんぽう)として武名を上げた。その後和平交渉を担当するが失敗し、慶長の役(第2次朝鮮出兵)に至る。その原因は、行長からの報告をもとに秀吉が「明は朝鮮の半分を引き渡し、和平協定を締結するものと上機嫌で待っていた」(『日本史』)にもかかわらず、明側は割譲どころか朝鮮半島からの撤退を求めてきたからだった。

 《狐(きつね)と狸(たぬき)との折衝》と、徳富蘇峰は大著『近世日本国民史』で、行長と明の「遊撃将軍」、沈惟敬(しんいけい)(後年、日明両国をあざむいていたことが露見し、さらし首に処された)との交渉を評した。そのうえで、《返す返すも彼(秀吉)の欠点は、この一大事を、行長等に一任した事だ》と断じている。
 その“真逆”の行長評が、松田毅一氏の著作『秀吉の南蛮外交』にある。
 《彼(行長)が「太閤」を裏切ったことはいまや明白である。しかし彼は「日本」を裏切ったのではない。彼こそは、母国日本を愛すると同じく、朝鮮人をも南蛮人をも区別することなく、平和と人類を愛した敬すべき人材のように思えてならぬ》
 松田氏は『日本史』や『十六・七世紀イエズス会日本報告集』の訳出・注釈で中心的な役割を担った。尊敬の念おくあたわない先人だが、この評だけはいかがなものか。
 百歩譲って行長が博愛主義者であったがために秀吉を裏切り、東アジアの和平を実現しようとしていた−と善意に解釈しても、彼のために戦線はより泥沼化し、多くの人命が失われることになったという結果は重大である。

 ましてや、朝鮮服属と日本軍撤退問題について、《功を焦って強引に体面を取り繕った》(鳥津亮二氏著『小西行長 史料で読む戦国史』)がために交渉が空中分解したばかりか、政敵・加藤清正の渡海計画を内密に李氏朝鮮側に伝え、撃滅させようとしたことにいたっては−である。
 《全世界に法を与えたこともある/かの国をひたすら滅ぼさんと/熱中するあまり/おまえらは自分たちの争いごとが/おまえらの敵どもに攻め入るすきを/与えていることに気づいていない》(※2)
 この詩の作者であるお師匠様が前回言っていたように、行長は国−少なくとも政権の行く末を傾けた「面従腹背の徒」とのそしりを免れない。
 ただ、結果がすべてを浄化したとはいえ、秀吉もまた信長に対して行長的なところがあった。ひょっとすると秀吉は行長に自分の若いころを感じ、同じ活躍を期待していたのかもしれない。
 だが、行長はその器ではなく、何より荷が重すぎた。蘇峰の指摘通り、それでも重用した秀吉の任命責任を見逃すことはできないだろう。
 「自分の若いころか…いやそれ以上だろうな」
 お師匠様だ。

 「フロイスによると、行長が一番調子よかったころ、秀吉は奴(やつ)に『死んだわが子(鶴松)が蘇(よみがえ)ってきたようだ』なんて言っていたんだろう? 正室・ねねのおい、小早川秀秋を養子にしていたときにはねねが秀秋に対して冷たいと言って『われらが金吾(秀秋の通称)を可愛(かわい)がらねばだれが可愛がる?』なんて書きつけているわな。秀吉は自分の大業を継ぎ、分身となる2代目がほしかったんだろう。ところが秀勝は若死にし、理由はそれぞれだが、秀次や行長、秀秋らは“排除”され、結局、海のものとも山のものとも分からぬ幼子の秀頼に後事を託さざるをえなくなる」
 「はあ…」
 「その点、信長は子宝に恵まれたうえ、宿敵・武田氏を一蹴した信忠という、血筋・武勇ともに衆目が一致する跡取りがいた。秀吉の出る幕はなかったろうよ。本能寺の変で信忠が死に急がなかったならばな。まあそれもこれも、信長ともあろう者が、明智光秀という部下を重用してしまったことに尽きるのだがな」(編集委員 関厚夫)
 ※1 筑摩書房『マキァヴェッリ全集6』、一部編集
 ※2 同全集4所収「謝肉祭の歌」

*2017.12.03 産経新聞より
(http://www.sankei.com/life/news/171203/lif1712030011-n1.html)

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