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zoom RSS 【マキャベリ流−是非に及ばず】(46)

<<   作成日時 : 2018/02/18 22:55   >>

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 日本史に関する記事では定評のある産経新聞、今回は数々の著作もある論説委員の関厚夫さんが、マキャベリをとおして日本史を語ります。必見です。

NOBUNAGA(46) 大事業をなしとげたのはすべて、けちとみなされた人である

 《譲位の事、(中略)後土御門(ごつちみかど)院以来、みなお望みだったのだが、折り合いがつかず実現するに至らなかった。いま、そなたの志を聞き、その奇特さに皇室再興の時が到来したと頼もしく感じ、祝いたく思っている》
 拙訳で恐縮だが天正元(1573)年の師走(旧暦)、正親町(おおぎまち)天皇が織田信長に賜った勅書である。「知の巨人」として名高い東洋史学者、内藤湖南(こなん)が監修し、そうそうたる国文・歴史学者たちが編集にあたった『宸翰(しんかん)集解説』は「正親町天皇が織田信長に譲位の希望を申し上げた。これに対して信長が『万事執り行いたく存じます』と上申したことについて、お悦びの言葉をもらしたものである」と、その背景を説明している。
 朝廷側の交渉役を務めていた公卿(くぎょう)、中山孝親の日記『孝親公記』によると、このとき信長側は、「今年はすでに日数もございませんから、来春早々にご譲位が実現できますよう取り計る所存です」と伝えてきた。
 当時、正親町天皇は数えで57歳。「人間50年」の時代ではすでに高齢であり、病気がちでもあったとされる。信長とも親交がある皇位継承者の誠仁(さねひと)親王は22歳だった。
画像
京都御苑内を流れる「出水の小川」 =京都市上京区(関厚夫撮影)

 《国内で戦闘がくりひろげられるほど、経済活動にとって痛手になるものはない》
 お師匠(マキャベリ)様(さん)は『政略論』(※1)でそうのたもうている。応仁の乱(1467〜77年)以降の戦国期、朝廷がおかれた状況はまさにその通りだった。財政事情が急激に悪化したため、生前退位である譲位どころか崩御に伴う即位式の挙行も困難をきわめた。
 正親町天皇の祖父にあたる後柏原(ごかしわばら)天皇は後土御門天皇の崩御後、践祚(せんそ)(皇位継承)から即位式まで21年もの月日を要した。それに比べて正親町天皇の父、後奈良天皇は践祚から即位式まで10年、正親町天皇自身は3年ですんだが、後奈良天皇のときは地方豪族の大内・北条・今川・朝倉各氏の献金、正親町天皇の場合は中国地方の覇者、毛利元就らの献金によって初めて可能となった。
 そんななか、譲位が実現すれば、寛正5(1464)年に後花園天皇が後土御門天皇に譲位して以来、約110年ぶりとなる。朝廷側は式次第や有職(ゆうそく)故実の確認など準備に追われることになったが、翌年どころか翌々年に至っても譲位は実現されない。天正9年に再び話が具体化しかけたが、これも流れてしまった。

 実は正親町天皇の譲位問題については『検証 本能寺の変』(谷口克広氏著)によると、研究者の間では見解が真っ二つに分かれていた。
 一説は、信長と正親町天皇は対立関係にあり、信長が何度も譲位を申し入れたにもかかわらず、そのつど正親町天皇は拒否していた−というもの。もう一つは正親町天皇と信長の関係は基本的には良好で、天皇は譲位を望んでいたが、信長側の事情で実現しなかったとする説である。ただ、近年は《公武融和の視点で織田信長と朝廷とを見直そうとする見方が注目されつつある》(神田千里氏著『織田信長』)という。
 「何べん言わせるんだ。ごちゃごちゃ並びたてるのではなく、おまえはどう思っているんだ、ということをはっきりさせろ!」とお師匠様からお叱りを受ける前に、一言。あれこれと調べてみたが、やはり後者の「公武融和説」をとりたい。冒頭に紹介した正親町天皇から信長への勅書が双方の関係を何より雄弁に物語っていると思う。
 さて当初は「天正2年挙行」ということで信長と朝廷が合意していた譲位がなぜ実現に至らなかったのか。
 天正の前の元号である元亀年間(1570〜73年途中)は信長にとって多難の時代だった。浅井長政・朝倉義景勢に何度か窮地に追い込まれ、信長と一大決戦をすべく武田信玄が挙兵し、西上してきたのも元亀年間だった。

 しかしながら天正に入ると浅井・朝倉氏を滅ぼし(元年)、長篠の戦いで武田勝頼に完勝する(3年)など状況は好転した。天正前半は信長にとってやや息をつける時期だったが、ここでも「経済問題」がたちはだかった。
 金子拓氏著『織田信長〈天下人の実像〉』によると、譲位にかかる費用は少なく見積もっても現在の貨幣価値でざっと10億円。さらに数億円程度増える可能性もある。譲位式と即位式の開催費、付随する建築費や上皇のための出費などがその内訳だ。
 同書は、度重なる戦費や当時の信長の蓄財を類推すると、《ある程度承知のうえで(譲位挙行の)申し入れをおこなったのだろうが》、信長にとっては《まことに大きな負担》であり、《そう簡単に実現はできなかったことは予想される》としている。
 一方、天正9年の譲位の機運に水をさしたのは陰陽(おんよう)道だった。朝廷から諮問を受けた陰陽師(おんみょうじ)は誠仁親王が居住する「二条城」(二条御所)から皇居への方角はこの年、「金神(こんじん)」(大凶)にあたると上申した。このため再延期され、結局、信長の時代に挙行されることはなかった。
 念願の譲位が実現したのは天正14年11月。誠仁親王が同年7月に急逝したため第一王子だった16歳の和仁親王が即位した。2年後、関白・秀吉邸の聚楽第(じゅらくだい)へ行幸することになる後陽成(ごようぜい)天皇である。

「『賢明な君主はけちだという評判など気にかけてはならない。大事業はすべて吝嗇(りんしょく)だとみなされた人によってしかなしとげられておらず、他の鷹揚(おうよう)な連中は滅んでいる』(※2)か…。まあ信長の野郎もがんばったんだろうが、もう少し蓄えがあったら譲位を実現でき、“尊王の魁(さきがけ)”としての名声を不動のものにできたのに、惜しいもんだ」
 遅まきながら登場したお師匠様はそこでいったん話を止め、不気味な笑顔を見せた。
 「ところで大丈夫なんだろうな、おまえさんところの国のトップ陣は。まさかご譲位のときにはすっかり顔ぶれが入れ替わったりしてはいねえだろうな」(編集委員 関厚夫)
 ※1 中央公論社『世界の名著21 マキアヴェリ』
 ※2 同・『君主論』から =ともに一部編集

*2017.10.22 産経新聞より
(http://www.sankei.com/life/news/171022/lif1710220006-n1.html)

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