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zoom RSS 【マキャベリ流−是非に及ばず】(45)

<<   作成日時 : 2018/02/13 00:33   >>

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 日本史に関する記事では定評のある産経新聞、今回は数々の著作もある論説委員の関厚夫さんが、マキャベリをとおして日本史を語ります。必見です。

NOBUNAGA(45)秀吉編 機会とは移ろい易く、瞬時に正反対の結末が現れるものである

 宮仕えゆえの屈折だろうか…。江戸時代中期の善政とされる「正徳の治」を推進した政治家であり、大学者の新井白石の著作『読史余論(とくしよろん)』の織田信長評のことである。
 《古(いにしえ)から名が聞こえていた人々の一族で、この人のために滅ぼされた例は枚挙にいとまがないほどである。(中略)総じてこの人は天性残忍で、詐力を以(もっ)て志をかなえていった。このため、その最期が善くないのは自らが招いたことであり、不幸ではない》
 「この人」が信長。彼にとって「是非に及ばず」−怒りと無念あまりある本能寺の変は自業自得だという。そう断罪した白石は《神祖(しんそ)(徳川家康)が神武(しんぶ)(神の如(ごと)き至上の武徳)をもって天下を従えられた》一方で、信長の武威は《鬼面で子供を脅かす》はったりである、としめくくる。
 まず神祖・家康ありき−。『読史余論』はもとはといえば徳川幕府6代将軍、家宣(いえのぶ)を相手にした講義の草稿だから仕方がないのかもしれない。でも、そんな“徳川史観”はこの章「信長治世の事」の中ほどでゆらぎを見せる。
 《兇逆の人》である信長が《暫(しばら)く》とはいえ、天下統一への志をかなえてゆき、子孫が絶えることがなかったのはなぜだろう、と白石は自問する。そして5つの答えを用意し、最後にこう述べる。

 《応仁の乱の後、この人が先陣を切って天下の諸勢力を従えてゆき、その勢いを駆ってわが神祖が天下を掌握するのでなければ、今日の泰平の世は訪れなかった。そればかりでなく、今日、多くの領地を持ち、大名と呼ばれる人はみな、信長の下で立身を遂げた者たちである》
 相変わらず「神祖」を登場させてはいる。だが案外、白石の本当の信長観はこのあたりにあったのではないか。
 それから約100年あまり後、頼山陽は『日本外史』で信長について記している。
 《天下の群雄が、囲碁でいえば隅を守り、狭隘(きょうあい)な陣地を奪うことに汲々(きゅうきゅう)とするなか、信長は独り、大局観をもち、勝利を制した。これを「超世の才」というのであろう》
 『日本外史』が幕末の志士に与えた影響は『読史余論』を凌駕(りょうが)する。その理由は信長を評した次の一文からもうかがえるだろう。
 《王を尊ぶという大義、また四方を経営する才略については一人として信長を師としない者はいない。徳川氏の興隆もまた、信長を師としたというほかはない》
 神祖・家康の業績は信長という魁(さきがけ)があってのこと。現代人も納得できるこの歴史観を「幕末」が始まる十〜二十数年前に披露した山陽の慧眼(けいがん)と勇気もまた、「超世の才」といえるのではないか。

 もう一つ、「王」とは天皇のこと。「尊王(皇)」についても信長が魁であり、家康や《信長の志を成就した》と山陽が評した豊臣秀吉もその下風に立つことになる。
 だが、白石は尊王論義についても「信長魁論」に否定的だ。室町幕府の最後の将軍・足利義昭への非難を開始するさい、信長は「朝廷軽視」を弾劾状の最初に掲げたが、『読史余論』によると、これは《天子(皇)を悪用して天下に号令する》ことにほかならず、秀吉もそんな信長を見習って《朝威を私物化した》と批判を展開している。
 さあ白石と山陽、どちらに軍配を上げるべきか−と書きかけたとき、お師匠(マキャベリ)様(さん)がどなりこんできた。
 「おまえはいつになったらその冗長な書きぶりから卒業するんだ! 『機会とは移ろい易(やす)く、瞬時に正反対の結末が現れるものだ』(※1)。主客と攻守が激しく入れ替わる、おまえの国の今回の総選挙は典型じゃねえか! だのに学習もせず、性懲りもなくのんきに見えすいたことばかり書きやがって…。山陽が正しいと言いたいのだろう? 信長は尊王の魁で、秀吉がそれを完成していったと言いたいのだろう? そうだったらそうと早く言え!」

 閉口。相変わらず、身も蓋もないことを…とふさぐ心を鼓舞し、いかに信長と秀吉が尊王の志を実現していったかについて次に述べたい。
 皇室領は14世紀前半から約60年続いた南北朝時代以降、次第に地方豪族らに蚕食されるようになり、応仁の乱を経て戦国時代に突入すると、絶望的な状況に陥った。
 この惨状にまず手を差し伸べたのが信長だった。いまだ反信長網の攻勢に手を焼いていたころから皇室領の回復や御所の修復に着手。この方針を受け継いだ秀吉のもとで、皇室領は7千石に達した。
 ちなみに家康は、関ケ原の戦いの翌年の慶長6(1601)年、皇室領を1万石に増額。以降の100年間で数度増額され、最終的に3万石強となって幕末を迎える。
 さて天子の行く所は万民が恩恵に浴し、幸いを受けるため、その外出を「行幸」という。松下浩氏の「信長と安土城」によると、安土築城当初から信長は安土への行幸を計画していたが、本能寺の変で挫折。天正16(1588)年4月(旧暦)、この宿願を「聚楽第(じゅらくだい)行幸」という形でかなえたのが秀吉だった。
画像
後陽成天皇の関白秀吉公邸・聚楽第訪問を描いた『聚楽第行幸図屏風』(2曲1双、堺市博物館蔵)

 《内裏(だいり)(後陽成(ごようぜい)天皇)と関白(秀吉)が通行する際に、この盛儀を眺めようと諸国から都に参集した人々は数え切れぬほどであった。民衆は、自分たちの目に映ずる行事の新奇、絢爛(けんらん)、華麗さ、(中略)先祖の多くの者が見なかったものを、我らの時代になって見ることができた、と言い、自分たちを仕合(しあ)わせ者と呼び、随喜の涙を流していた》(フロイス著『日本史』)
 「小さい、小さい!」
 またお師匠様の登場だが、何かいやな予感がする…。
 「信長と秀吉は2代にわたってもっと大きな仕事をやってのけたじゃないか。実に120年ぶりの譲位のことさ。何? 手に負いかねる? 『もしお前が自分を助けるならば、みんながお前を助けるだろう』(※2)。そう信じて挑戦するんだよ!」(編集委員 関厚夫)
 ※1 筑摩書房『マキァヴェッリ全集1』(『戦争の技術』)▽※2 同全集6

*2017.10.15 産経新聞より
(http://www.sankei.com/life/news/171015/lif1710150009-n1.html)

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