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zoom RSS 【マキャベリ流−是非に及ばず】(44)

<<   作成日時 : 2018/02/10 23:18   >>

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日本史に関する記事では定評のある産経新聞、今回は数々の著作もある論説委員の関厚夫さんが、マキャベリをとおして日本史を語ります。必見です。

NOBUNAGA(44)秀吉編 乱世には悪人は才人と賞賛され、善人は愚物と非難される

 《関白はこの寺院、その他の再建を命じたとはいえ、それは神や仏に対する畏怖なり信心に基づくものではなかった。彼は、これらは偽物であり、諸国を善く治め、人間相互の調和を保つために、人が案出したものだと述べ、罵倒し軽蔑していた》
 イエズス会宣教師、ルイス・フロイス著『日本史』の記述である。「この寺院」とは空海ゆかりの世界遺産、東寺(とうじ)(京都市南区)。関白・豊臣秀吉がその職をそろそろおいの秀次に譲ろうとしていたころのくだりである。
 《(関白は)日本の宗派に含まれているものはすべて欺瞞(ぎまん)であると考え、なんら信仰も信心も有してはいなかった》
 フロイスはそう続け、そんな神仏観は《死後の善悪の報いとか来世を認めず、存在するものは、ただ現世と一つの混沌(こんとん)だけで、万物は腐敗した後にはそこへ還元し、それにより同じ物になり変る》と説く禅宗に由来する、とする。
 そこでは「不立文字(ふりゅうもんじ)」(悟りの境地は文字や言葉では表現できず、神髄は以心伝心にあること)や「直指人心見性成仏(じきしにんしんけんしょうじょうぶつ)」(座禅によって心の本性をみきわめ、人の心と仏とは本来同一であるという悟りを開くこと)をはじめとする禅宗の根本思想についてふれていない。だからこの記述は「一面的」とされても仕方がないところがあるが、フロイスが禅宗をそのようにとらえることによって、秀吉を理解するよすがとしていたことは着目するに値するだろう。

 《彼は善き理性と明晰(めいせき)な判断力を有し、神および仏のいっさいの礼拝、尊崇、ならびにあらゆる異教的占卜(せんぼく)や迷信的慣習の軽蔑者であった。形だけは当初法華宗に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大にすべての偶像を見下げ、若干の点、禅宗の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした》
 再び秀吉−ではなく、同じく『日本史』に描かれた30代半ばの信長の神仏観だ。ここでも禅宗が登場するが、興味深いことにこの記述のもととなった1569(永禄12)年のフロイス自身の書簡には「禅宗〜」のくだりはない。
 1578(天正6)年、彼は書状で《重立った大身や国主らが最も傾倒する》宗教として禅宗にふれ、その教義について批判的に解説している。『日本史』の執筆は1583年から十数年間という。時間の経過とともにフロイスは禅宗をライバル視するようになり、それが『日本史』における「決して改宗しない天下人」である信長と秀吉像に反映されたのではないか。

 「あーあ、眠たい、実にくだらない。これを半可通(なまかじり)のお手本というんだろうな」
 お師匠(マキャベリ)様(さん)である。言うに事欠き、何たる暴言、たとえ師弟の間柄であろうと−と腸(はらわた)が煮え返り、歯ぎしりする筆者を楽しげに眺めながらお師匠様はたたみかけてきた。
 「すべての人々から信仰や神への畏れが消え去ってしまった。このため、人々が誓約したり約束したりするのはそれを守るためではなく、他人を容易に騙(だま)すことができるからだった。容易にまた確実に騙すのに成功すればするほど名声と賞賛を手にすることができる。だから悪人は才人として賞賛され、善人は愚物として非難された−(※)。これは天災と人災で大混乱していた14世紀後半のフィレンツェ社会を喝破したおれさまの文章だが、おまえさんのところの戦国時代、ひょっとすると今の世も似たようなもんさ。知ったかぶりで『日本史』や辞書・辞典類をつぎはぎして長々と書き連ねるより、よっぽどこの一節のほうが信長・秀吉時代の精神というものを説明してはいないかい?」
 くやしい。
 一面的だし、的外れだ、と思う。大々的な反論を展開したいところだが、紙幅の都合がある。滅私の精神で忍び、次のテーマ「神になった信長と秀吉」に移りたい。
 「JR京都駅から20分くらいでいけまっしゃろ」と聞いたが、ゆけどもゆけどもたどりつかない。カメラやパソコン、出張用の資料と荷物が詰まったリュックのストラップが肩に食い込む。湿度が高く初秋ながら気温は真夏日に近い。半時間を超える苦行の末にたどりついた豊国神社(京都市東山区)は思ったよりもこぢんまりしていた。
画像
参拝者が絶えない豊国神社の国宝・唐門=京都市東山区(関厚夫撮影)

 400年余り前、神となった秀吉である「豊国大明神」をまつる社殿は、現在の豊国神社から約1キロ東の豊国廟周辺にあり、その広大な敷地に造営された建築群の《宏壮(こうそう)華麗さは古今に絶するといわれた》(『国史大辞典』)。
 豊臣氏の栄華を象徴するこの界隈(かいわい)の興隆は天正・文禄年間の「(京都)大仏」の着・完工に遡(さかのぼ)る。この奇妙な名前は現・豊国神社に北接する方広寺の通称。焼亡した奈良・東大寺の大仏殿の代わりとしてまずは秀吉、次いで嫡子の秀頼が建立した高さ20メートル近い大仏の威容に由来する。
 方広寺は秀頼の大仏造営(再建)のさい、豊臣氏討伐の口実となった「国家安康」と刻んだ鐘銘事件で有名だが実は、秀吉による信長の位牌(いはい)所建設計画が紆余(うよ)曲折した末の姿なのだという。

 豊臣氏の滅亡後、徳川家康は豊国神社の社領を没収し、「豊国大明神」の神号を剥奪する。「ただの人」となった秀吉が再び「神」となるのは明治維新後のことだ。
 意外なことに、信長が初めて神としてまつられるようになったのも死後300年近くたった維新後である。前年の豊国神社の再興令に続く明治2(1869)年、明治天皇は信長に神号を賜り、後年に創建された建勲(たけいさお)神社(京都市北区)の祭神となった。
 「ということは、だ」
 あいたた、お師匠様がまた油揚げをさらいにきたか、と覚悟したら案の定、予想通りの展開となった。
 「今年は“明治150年”−。信長の神格化と豊国大明神の復権は150年前の王政復古以来の意味をもつ、ということじゃねえのか? となれば、鍵を握るのは信長・秀吉と、“2代”にわたる天皇家・朝廷との関係だわな。調べてみろよ、そのあたりを。いろいろと面白いことが出てくるはずだぜ」(編集委員 関厚夫)
 ※ 岩波文庫『フィレンツェ史(上)』=一部編集

*2017.10.08 産経新聞より
(http://www.sankei.com/life/news/171008/lif1710080011-n1.html)

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