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zoom RSS 【マキャベリ流−是非に及ばず】(43)

<<   作成日時 : 2018/02/03 23:44   >>

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 日本史に関する記事では定評のある産経新聞、今回は数々の著作もある論説委員の関厚夫さんが、マキャベリをとおして日本史を語ります。必見です。

NOBUNAGA(43)秀吉編 善行や勝利は報われぬ。味方は嫉妬し、敵は憎悪するからだ

 《国家を建設する器の人物は、細心でかつ積極的でなければならない》(※1)
 お師匠(マキャベリ)様(さん)は『政略論』のなかで、伝説上のローマの建国者、ロムルスを引き合いにしながら、そう述べている。
 「細心」といえば織田信長である。上司としての彼がいかに細かく、うるさかったかについては豊臣秀吉や荒木村重に対する指示、重臣だった佐久間信盛への弾劾状を例に以前ふれたが、むろんそれは彼らだけにとどまらない。
 《念を入れた度々の注進に接し、誠に感悦至極。ところで明智光秀と合議するさいの時宜についても追って報告することが肝要である》
 これは天正6(1578)年11月(旧暦)、信長が細川藤孝(幽斎)に与えた書状。またそれから3年3カ月後、先鋒(せんぽう)大将として甲斐国・武田勝頼討伐に出陣する、数えで26歳の嫡子、信忠の補佐役である滝川一益に書状で以下のように指示している。
 《軽挙は努々(ゆめゆめ)無用のこと。もし少しでも落ち度があれば外聞も内実も、あるまじき曲事(くせごと)となる。信忠はその若さゆえ一人でも粉骨砕身して名を挙げようとする気負いが顔に出ている。このため、ことあるごとに妄動するだろう。(中略)勝頼を討ち果たすのは予が率いる後発の本隊である。万が一でも粗忽(そこつ)に動き、少しでも落ち度があったならたとえおぬしは命拾いをしたとしても、二度とわが面前に現れてはならぬ。以上、寸分の隙(すき)なく覚悟するように》

 いやはや、である。前にも書いた気がするが、こんな上司をもった部下はさぞかし大変だろうと思う。その信長の薫陶だろう。上司・秀吉もかなり細かいのである。
 《少々のことでも、細々と注進すべし》
 天正11年4月、賤ケ岳(しずがたけ)(滋賀県長浜市)における柴田勝家との一大決戦の直前。弟、羽柴秀長への書簡で、火の用心から陣取りまで指示し、敵情を分析してみせたあとの結びの一文だ。秀吉の「細心さ」は昨年、功臣「賤ケ岳七本槍(やり)」の一人、脇坂安治への書状がまとまって確認されたさいにも話題になったが、どうやら脇坂にはじまったことではなさそうである。
 この細心さというか、秀吉の神経質さがあらわれているのは「指令書」だけではない。秀長への書簡の半年前の天正10年10月、勝家と結び、秀吉に敵対する構えを見せていた信長の三男、信孝に向け(あて先は信孝の家臣)秀吉は長文の書状を送っている。
 そのなかで彼は、信長の恩や武功の数々、また本能寺の変を受けた「中国大返し」の後、信孝を盟主にいただき明智光秀を討ち果たしたことを連綿とつづる一方、「天下における信孝様のほまれはこの筑前(秀吉の官名)の覚悟の働きがあったからこそなのですから、だれにもまして大事に、かわゆがるべきなのにそのお気持ちはなく、他の者と同様のお取り扱いに困惑しております」と訴えている。

 信孝は秀吉の目上にあたるため、もちろん敬語を使ってはいる。が、その内容は佐久間信盛に対する信長の弾劾状をほうふつさせる。
 「いやあ、面白いねえ。『善行は報われない。勝利を得ても誰も君を賞賛せず、失敗すると皆が非難し、敗北すると皆が中傷する。なぜなら味方は嫉妬のために、敵は憎悪のために、君を迫害するからだ』(※2)。さすが信長のまな弟子だ。秀吉はこの永遠の真理を逆手に取って敵を粉砕していったんだからな」
 お師匠様である。いつもの辛口がどうも秀吉には甘いような気がする。そういえば、洋の東西はちがえどお師匠様も秀吉も、顔のつくりがさる動物に似ている。だから親近感を抱いているのか…。
 秀吉には目上や権威を何とも思わぬところがあった。
 「そこまでわけの分からないことをおっしゃるのなら、『公方様は行方知れずになりました』と信長様には報告しますから、どこへでも落ちのびるがよろしかろう」
 天正元年晩秋、場所は堺。秀吉は室町幕府15代将軍、足利義昭の面前でそう言ってのけた。信長に反旗を翻したがあえなく敗れた義昭の今後の処遇をめぐり、その後ろ盾・毛利氏の代表を交えて交渉していたときのことである。

 呆然(ぼうぜん)とする毛利側と義昭を尻目に秀吉はこの捨て台詞(ぜりふ)を残したまま翌日には大坂へ。一歩間違えれば勝家との確執から生じた「職場放棄」事件同様、「曲事!」と信長の激怒を買いそうな独断である。この時点では義昭はまだ京都に戻る可能性もあったから、秀吉が室町幕府の命脈にとどめをさしたことになる。
 そんな秀吉は信長だけには変わらぬ敬意を持ち続けていた−といいたいところだが、前述の「脇坂文書」のなかに本能寺の変から3年後、秀吉の命令は絶対であり、《信長時之》如(ごと)く、少々言うことを聞かなくても許されるとは思うな−といった意味のことが書かれた手紙がある。
 不遜にも秀吉は信長を呼び捨てにしている。この手紙は秀吉が関白に就任してまもなくのもので、「格上になった当時の思いが反映されている可能性がある」という。
 「よく調べてみろ!」。お師匠様の怒りの声がとどろきわたった。
 「秀吉は信長の生前から書状では呼び捨てにしているわ! 『殿様』とか『上様』と敬称をつけた書状もあるが、呼び捨ても一度や二度ではなく、あて先は村落や寺社の代表から同盟先の家臣、同僚まで多岐にわたり、その時期も十何年にもわたっているじゃねえか。結局、秀吉にとって信長は“身内”だったということじゃねえのか?」
画像
猿若舞を踊る初代中村勘三郎像=名古屋市の中村公園(関厚夫撮影)

 例によってお師匠様は反論の隙を与えることなく、一方的にまくしたてた。
 「それよりも信孝の家臣にあてた書状だ。『上様のご芳情は須弥山(しゅみせん)より重く、そのご法要を全国各地で実現できたならば筑前はそのあと、追い腹を十文字に切っても恨みはござらん』とあるだろう。さすが初代中村勘三郎も生まれたという尾張国中村出身。少々芝居じみているが、これが秀吉なんだよ!」(編集委員 関厚夫)
 ※1 中央公論社『世界の名著21 マキアヴェリ』
 ※2 筑摩書房『マキァヴェッリ全集3』=一部編集


*2017.10.01 産経新聞より
(http://www.sankei.com/life/news/171001/lif1710010008-n1.html)

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