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zoom RSS 【マキャベリ流−是非に及ばず】(42)

<<   作成日時 : 2018/02/02 22:43   >>

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 日本史に関する記事では定評のある産経新聞、今回は数々の著作もある論説委員の関厚夫さんが、マキャベリをとおして日本史を語ります。必見です。

NOBUNAGA(42)秀吉編 戦国期において慈悲深さと皆殺しの悪徳は表裏一体である

  『花燃ゆ』を例外として、近年、NHK大河ドラマにはとんとご無沙汰している。少しぐらい播磨国(兵庫県南西部)姫路出身の黒田孝高(よしたか)(如水(じょすい))を主人公にした『軍師官兵衛』を見ておくべきだったかなと思いつつ、山中、小雨の粒とにじみ出る汗が入り混じる額をぬぐった。
 岡山県境、当時の名前でいえば美作国や備前国にほど近い、標高200メートル足らずの荒神(こうじん)山に築かれていた上月(こうづき)城(兵庫県佐用町)。麓の、大河ドラマ放映の前年に設置された解説板には「城主の妻は黒田官兵衛の妻・光(てる)の姉であり、官兵衛と城主は義兄弟であった」と書かれてあった。
画像
上月城跡で=兵庫県佐用町(関厚夫撮影)

 天正5(1577)年11月(旧暦)下旬、その官兵衛や竹中重治(半兵衛)を従えた羽柴(豊臣)秀吉は、毛利勢が籠もる上月城に猛攻撃を仕掛けた。数日後、城主の首を掲げて城兵が降参してきた。
 秀吉はこの命乞いを認めなかった。『信長公記』によると、「残党」はことごとく磔(はりつけ)にされ、備前・美作との国境にさらされた。
 これでも十分残酷だが、秀吉自身の描写はそれに輪をかけている。「城兵はすべて首をはね、女子供200人余のうち、子供は串刺しにし、女は磔にして国境に並べた」。彼は当時の本拠地・近江国長浜にそう書き送っている。

 《秀吉人を切ぬき申(もうし)候事きらい申候》
 天正11年5月の秀吉の書状にはそうある。「いったいどちらが正しいのか」と考えるべきか、「秀吉ほどの二枚舌はいない」と考えるべきか。
 「何を悩む必要がある? 決まっているじゃないか」
 早々にお師匠様(マキャベリさん)のお出ましである。
 「『君主たるもの、慈悲ぶかいとか、信義に厚いとか、人情があるとか、裏表がないとか、敬虔(けいけん)だとかと思わせることが必要だ。それでいて、もしそのような態度を捨てさらなければならないときはまったく逆の気質に転換できなくてはならない』(※1)。おれさまの『君主論』にあるこの一節が秀吉という人間をものの見事に説明しているじゃないか」
 お師匠様はすごみのある冷笑を浮かべ、言葉を継いだ。
 「もし残酷さという悪について『立派に使う』という言い方が許されるならそれは、自分の立場を守る必要上、一度はそれを行使してもその後は固執せず、できるかぎり臣下の役にたつ方法に転換した場合をいう。つまりある国を奪いとる場合、征服者は残酷な加害行為を一気呵成(かせい)に実行するように配慮し、日々蒸しかえしたりしないことで人心を安らかにし、恩を施して民心をつかまなければならない(※2)ということさ」

 お師匠様のこの立論には有力な“援軍”がいる。神田千里氏著の『織田信長』(ちくま新書)によると、北条早雲しかり、伊達政宗しかり、そして信長しかり。《戦国大名の間で皆殺し作戦は、決して多くはないがある場面ではみられる軍事的作戦である》。皆殺しのような残酷さは限定的ながら、「必要悪」として認知されていたというのだ。
 とはいえ、である。お師匠様の「秀吉二枚舌」説に反論の余地がないわけではない。
 《秀吉の播磨国での働きは目ざましかった。無断で戦線を離脱した汚名を返上するためである。しかしながら罪もない幼児を串刺しにする残虐行為も敢(あえ)てしている。秀吉も必死だからである》
 『増訂 織田信長文書の研究』で信長研究の権威、奥野高廣氏はこのころの秀吉についてそう解説している。
 「無断で戦線を離脱した汚名」とは前回ふれた、織田軍の北陸方面総大将、柴田勝家との確執から生じた「職場放棄」のこと。しかし信長は、秀吉の謹慎処分をすぐに解いたばかりか、中国・播磨方面の総大将に抜擢(ばってき)した。この期待と温情に何としてでも応えなければ、武将として、また人間としてすべてが終わる。秀吉はそんな悲壮な心境にあったにちがいない。

 もう一つ、指摘したい。
 4年後の鳥取城に対する兵糧攻めについて秀吉はある書状で「城兵すべての首をはねた」と豪語している。ところが『信長公記』には、城将の吉川経家(つねいえ)ら主だった大将は腹を切ったが、《城内の他の者は助け出された。みな餓鬼のようにやせ衰えていたので秀吉はあまりにふびんに思い、食物を与えたところ食あたりをおこし、過半が頓死した》とある。また、鳥取県史編さん室も「鳥取城兵皆殺し」の事実はないとみている。
 水攻めで有名な備中高松城(岡山市)攻略についても、史実との間に同様の食い違いがみられる秀吉の書状が残っている。ひょっとすると秀吉は実際以上の「血も涙もない武将」を演じていたのではないか。もしそうならば、主君・信長と、その信長も恐れた世間の視線を意識していたからだろう。だから「上月城兵皆殺し」はあったとしても、罪もない女子供まで虐殺したという秀吉の手紙はうのみにはできない…と思う。
 秀吉の生殺与奪権を握っていた信長は、案外な優しさを見せることがあった。
 秀吉が中国戦線から離れ、長浜で休養していた天正7年11月、信長は「毛利軍攻勢」を告げる秀吉麾下(きか)の蜂須賀小六に「秀吉は永々と苦労をしたから出陣はもう少し後にしてやろう」と返答している。

 また秀吉の回想によると、安土城に参上したさい、信長は秀吉の頭をなで、「侍たる者、筑前(秀吉の官名)にあやかりたいものだ」とほめたたえた。「その他もろもろのご恩を思い、夜昼涙にくれている」。本能寺の変後、そう秀吉は書き残している。
 おそらく信長は、彼のために秀吉がいかに自分を押し殺して仕えているかを知っていたのだろう。秀吉はそんな理解者・信長のためあえて「皆殺し」を行い、後世の誤解を承知で誇大に喧伝(けんでん)した−。
 ここで、酔っ払っているのか、はたまた怒りのためか、顔を真っ赤にしたお師匠様が再登場してきた。
 「大甘、寒気がするほど甘い。よく心得ておけ。戦国時代、また乱世は『君主論』の時代なんだとな!」(編集委員 関厚夫)
 ※1、2 中央公論社『世界の名著21 マキアヴェリ』=ともに一部編集


*2017.09.24 産経新聞より
(http://www.sankei.com/life/news/170924/lif1709240009-n1.html)

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