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zoom RSS 【マキャベリ流−是非に及ばず】(41)

<<   作成日時 : 2018/01/28 21:25   >>

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 日本史に関する記事では定評のある産経新聞、今回は数々の著作もある論説委員の関厚夫さんが、マキャベリをとおして日本史を語ります。必見です。

NOBUNAGA(41)秀吉編 四面楚歌の中に味方を得られるかどうかが勝負どころである

 《猿帰り候て、夜前の様子を具(つぶさ)に言上(ごんじょう)候》
 紀州の本願寺門徒・雑賀衆を鎮圧するため遠征中の織田信長が天正5(1577)年3月(旧暦)、細川藤孝(幽斎)や明智光秀ら麾下(きか)の武将にあてた指令書(漢文の部分は読み下し)の一文である。
 「夜前」の情勢を事細かに報告した「猿」とは羽柴(豊臣)秀吉。信長の手紙では、秀吉の妻、ねねにあてた文中で秀吉を「はげねすみ(ネズミ)」と呼んだことも知られている。
 私信だけでなく、指令書という公的文書のなかでもあだ名で呼ぶ。信長と秀吉という主従、また上司−部下の間の近さがわかろうというものだ。そんな関係に甘えたのだろうか、「猿」の書状から5カ月後、秀吉はとんでもない失態をしでかす。
 〈8月8日、信長公は柴田勝家を総大将として、越後の上杉謙信ならびに加賀・能登地方の一揆を討伐するための兵を出された。柴田に従うのは滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀ら。ところが秀吉は信長公におうかがいを立てることなく、軍を引き揚げてしまった。このことは信長公の逆鱗(げきりん)に触れ、秀吉は途方に暮れることになった〉
画像
柴田勝家像。勝家との確執から羽柴秀吉は「職場放棄」に至る=福井市、北の庄城址・柴田公園(関厚夫撮影)

 『信長公記』の記述の要約である。職場放棄。上官である勝家に対する反発と反目がこの明確な軍律違反の理由だったとされる。

 「いやあ、やるねえ。おれも何度、外交官時代にフィレンツェ共和国政府の上層部どもとぶつかったことか。『事態が思った通りに進展するのを見る時、当地で感じたことを報告しないで後で悔いるよりも、変な意見を言う奴(やつ)だと思われる方がましだ』(※1)。そう考えて我慢していたが、あまりの石頭ぶりに国外出張中の一番大事な局面で辞表を送ってやったこともある。もちろん、情報源に食い込んでいるこの有能なおれさまを連中が解任などできないことを見切ってのうえのことさ。当たり前じゃねえか」
 お師匠(マキャベリ)様(さん)である。今回は、不謹慎にもどこかで一杯ひっかけてきたのではないか、と思われるほど機嫌がいい。
 「『他者は隣人の危機によって賢明になるのですが、皆様方は自らの危機を経ても賢明になられるどころか、これから無駄にする時間やこれまでに無駄にした時間のことにも気づいておられません。お考えを変えないままでは、結果を得られずまた涙することになるでしょう』(※2)。本当はこれくらい、がんと言ってやりたかったんだが、その役目はお人好(ひとよし)の終身執政長官(ゴンファロニエーレ)に振ってやったよ。何? いったいどうやって、てか? おれさまは長官のスピーチライターも兼職していたんだよ。そうそう、そういえばこんなこともあったんだが…」
 あまりにしつこい、もとい紙幅に限りがあるため、涙をのんでお師匠様の自慢ばな−いやいや武勇伝を割愛し、話を次に進めたい。
 「職場放棄」の報告を受けた信長は「言語道断の曲事(くせごと)。弁解の余地なし」と激怒し、秀吉に対して本拠の長浜城で謹慎するよう命じた。
 さすがの秀吉も今度ばかりはしょげかえると思いきや、早朝から馬で外出、夕方以降は猿楽師を呼んで酒宴を開催し、らんちき騒ぎこそしないものの夜明けまで遊びほうけることもあった。
 「信長様からさらに重い処分が下されるのでは」と浅野長政や蜂須賀小六といった秀吉の家臣たちは気が気ではない。このため「これでは許されるものも許されぬことになりましょう」と諫言(かんげん)したところ、秀吉は「今回の謹慎処分はこれまで身を粉にして働いてきたわしへの信長様からのご褒美じゃ。この暇にあだ名の猿らしく踊って酔い、数年来の鬱憤を晴らさんでどうする」と笑ってとりあわない。
 困り果てた長政が秀吉の知恵袋、竹中半兵衛(重治)に相談すると、「さすがでござる。いまや秀吉殿は枢要の地を預かる大身。あまりかしこまっていると逆に、『謀反を企てている』などと信長様の耳にまことしやかにささやく者も現れて小うるさいことになる。そう考えて酒宴と遊興を楽しんでいるふうを演じておられるのでしょう」。

 智者(ちしゃ)は智者を知る。この半兵衛の解説に長政は感銘を受けた−。以上、『真書太閤記』の要約である。さもありなんという内容だが、明治初期ごろの完成という秀吉伝の集大成である同書は「後の演劇や小説などに題材を提供している」(日本国語大辞典)ものの、残念ながら「史料価値は低い」(同)とされる。事実この挿話は太田牛一著『信長公記』どころか信憑(しんぴょう)性に「?」がつけられている小瀬甫庵(おぜほあん)の『信長記』や『太閤記』にも収載されていない。
 この挿話の真偽はさておき秀吉は案外早く「職場復帰」している。処分からまもなく松永久秀の謀反が発覚。約2カ月後の10月、信長の嫡子、信忠率いる織田軍が奈良・信貴山城に籠もる久秀を攻め滅ぼしたさい、秀吉は部将の一人に名を連ねている。
 そして同じ月の下旬、秀吉は信長によって毛利氏討伐を目的とする中国・播磨方面の総大将に任じられる。謹慎処分の火種をつくった北陸方面の総大将、柴田勝家と同格という抜擢(ばってき)だった。
 ところが2年後、秀吉は再びやらかす。毛利氏の先鋒(せんぽう)役で難敵だった宇喜多直家を逆に味方の先鋒役とするためにくどき落としたまではよかった。だが、安土城に赴いて事の次第を報告すると、信長は「だれがそんなことを命じた? 曲事である!」と激怒、秀吉を播磨の最前線に追い返すのである。

 その背景には信長は当時、毛利氏との決戦よりも和平を模索していたことがあるとされる。しかしながら結局、直家の帰順は許され、秀吉率いる中国方面軍は毛利氏との決戦に向けて邁進(まいしん)する。
 「『四面楚歌(そか)の中に味方を得られるかどうかが勝負どころである』(※3)。苦境の秀吉にとって最大の味方は信長だったわけだが、見ろ、おまえがおれを早く止めないから、なぜ信長が秀吉の味方となったかを解き明かす前に紙幅が尽きたじゃないか!」(編集委員 関厚夫)
 ※1、3 筑摩書房『マキァヴェッリ全集5』▽※2 同全集6=いずれも一部編集

*2017.9.17 産経新聞より
(http://www.sankei.com/life/news/170917/lif1709170010-n1.html)

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