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zoom RSS 【マキャベリ流−是非に及ばず】(40)

<<   作成日時 : 2018/01/20 23:23   >>

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 日本史に関する記事では定評のある産経新聞、今回は数々の著作もある論説委員の関厚夫さんが、マキャベリをとおして日本史を語ります。必見です。

NOBUNAGA(40)喰わせものにひきずられてしまうのは、世の常である

 《国主が大いに寵する藤吉郎殿が尾張国より到着した。(中略)彼は大いに我らを歓待し、我らの宿は遠いと言ってさっそくにも我らを午餐(ごさん)に招いた。然して、直ちに我らの面前で宿の主人宛ての伝言を発し、私を万事厚遇すること、ならびに私のために必要な物は何であれ彼に伝えることを請うた》
 1569(永禄12)年7月12日付の書簡にイエズス会宣教師、ルイス・フロイスはそうつづっている。文中の「国主」とは数えで36歳の織田信長。前年秋に最後の将軍となる足利義昭を擁して念願の入洛を果たし、天下統一への道を着々と歩んでいた。
 その信長が最大限に目をかけてかわいがっていた「藤吉郎殿」はもちろん、当時33歳(34歳説も)だったのちの豊臣秀吉。18年後の天正15(1587)年、秀吉が伴天連(ばてれん)追放令を発布したことについてフロイスは著書『日本史』で《日本で未曽有の、かつ思いもよらぬ大迫害を惹起(じゃっき)した悪魔の直接の手先となった。(中略)齢(よわい)すでに五十を過ぎていながら、肉欲と不品行においてきわめて放縦に振舞い、野望と肉欲が、彼から正常な判断力を奪いとったかに思われた》と断罪するのだが、おそらく岐阜城下の秀吉邸で実現した初対面はしごく友好的なものだった。
画像
重要文化財「豊臣秀吉画像」=伝狩野光信筆、阪急文化財団(逸翁美術館)蔵

 「皆が見るとおり、予は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」
 やはり『日本史』に記録されている、伴天連追放令直前の秀吉の発言だ。そこでほうふつさせるのは、自分の容姿にコンプレックスを抱えるがゆえに、強烈な自負心を示す独裁者の姿である。
 が、『日本史』は自分やほかの宣教師たちの報告書をもとに後年、編纂(へんさん)されたもの。伴天連追放令は「一時的で、まだ撤回の余地がある」とみていた天正15年度の年報のなかで、同時期の秀吉のことをフロイスはこう記している。
 《関白殿は(中略)極めて努力家で、運が強く思慮深い武将だった》
 模範的な指導者(リーダー)像である。だからフロイスの文章、また秀吉という人間を解釈するのは難しい。
 《彼の場合、その快楽的な生活と真面目(まじめ)な生活を考えると、まるで別の二人の人物が、ほとんど不可能なつながり方で一体となっていたように見える》(※1)
 お師匠様(マキャベリさん)の秀吉評−ではなく、『フィレンツェ史』に登場する豪華公(イル・マニーフィコ)、ロレンツォ・デ・メディチの肖像である。彼同様、聖俗と善悪を併せもつ部下・秀吉を、信長はどう操縦していたのだろうか。
 《殊に秀吉は物にこえ、さし出(いで)たる人にて有し》
 「秀吉伝」の元祖ともいえる小瀬甫庵(おぜ・ほあん)作の『太閤記』は秀吉の性格をそう解説している。この「超」のつく「さしでがましさ」は、放浪生活を経て信長に仕え始めた時期から顕著だったという。
 一例を挙げれば、信長の急な出立や鷹(たか)狩りのさい、新参者ながら、またその任でもないのに影のように付き従うという努力が実り、信長から直々に用を命じられるようになったころ、「用・治水がよいようで悪い清洲(きよす)(須)から小牧山に居城を移した方がよかろうと存じます」と秀吉が信長に進言したことがあった。
 信長も内々、そう思ってはいたが、移転で生じる費用や労力、反発を考慮してあえて口に出さずにいた。このため「さしでがましいわ! それは忠言のようで忠言でない。おまえの罪は死に値するが、今回だけは見逃してやる!」とこっぴどく叱りつけた。
 ところが秀吉はその後も性懲りもなく、「よかれ」と思うことをそのまま信長の面前で口にしたため何度も同様の叱責を受けた。家中では「これほど面の皮の厚い男は前代未聞だ」と陰口をたたいて笑い物にしたが、秀吉は気にもとめないふうだったという。

《秀吉は生まれつき、厳しく激しい気性であった。その秀吉に「ゆるやかに成功するよう努力せよ」と制止役を務めた信長公の才知のほどを知るべきである。(中略)秀吉は8歳のときから流浪の身となった後、ここかしこで嫌われ、追い出された。抜群の才をもつ者を厭(いと)い、捨てる。これは古今不変の人間の性(さが)というものである》
 拙訳で恐縮至極だが、甫庵は『太閤記』でそんな自説を開陳している。後半部は「なるほど」とも思う。しかし、少しふに落ちないのが、信長−秀吉を理想の主従関係というか、上司−部下として説明している前半部である。
 というのも、『太閤記』は甫庵の別の著作『信長記』同様、その記述をうのみにはできかねる−とされているからだ。以上、今回引用した『太閤記』の「巻第一」も、甫庵が直接に知ることのなかった信長の心理を微に入り細をうがって記述しているところがどうもうさんくさい。
 ちなみに、信長研究の基本資料である太田牛一著『信長公記』では前半、秀吉の影は薄い。秀吉は「数ある武将の一人」といった扱いで、『太閤記』がこと細かに記す主従のエピソードはまったく記されていない…。
 「いつもながら、おまえの話はいったいいつになったら結論にたどりつくんだ」
 噛(か)みつぶしているのは苦虫かはたまたわき出る冷笑か。いずれにしてもいやな表情のお師匠様が現れた。

 「善悪の判断はだれが行なっても同じである。しかしながら、ほとんど全部の人間が、うわべの善行とか見せかけの栄誉に簡単にまどわされ、みずからのぞんで、あるいは気がつかないままに、すぐれたものよりは喰(く)わせものにひきずられてしまう(※2)。おれに言わせれば、その喰わせものの典型が『古代ローマの最も偉大な将軍・政治家』なんて紹介されているカエサルさ。そんなことより、信長と秀吉というこのとんでもない主従がはたして喰わせものだったのかどうか、しばらく考えてみることにしようぜ」(編集委員 関厚夫)
 ※1 筑摩書房『マキァヴェッリ全集3』▽※2 中央公論社『世界の名著21 マキアヴェリ』より『政略論』


*2017.09.10 産経新聞より
(http://www.sankei.com/life/news/170910/lif1709100011-n1.html)

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