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zoom RSS 【マキャベリ流−是非に及ばず】(39)

<<   作成日時 : 2018/01/14 21:33   >>

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 日本史に関する記事では定評のある産経新聞、今回は数々の著作もある論説委員の関厚夫さんが、マキャベリをとおして日本史を語ります。必見です。

NOBUNAGA(39) 時代の寵児も老いれば不確かな利益のために確かな勝利を犠牲にする

 「この老翁は世人がなしがたいことを3つもしている。まず将軍を弑(しい)し奉り、自分の主君である三好氏を殺害し、奈良の大仏殿を焼いた…」
 ある日、徳川家康が織田信長に対面したさい、信長が脇に控えていた松永久秀をそう紹介したところ久秀は汗を流して赤面した−。前回ふれた江戸中期の随筆『常山紀談』にある有名な挿話である。
 《多くの人々は、何か賞賛すべき行為で名を残す機会がもてなかったら、不名誉な行為によってでもその機会をもちたいと努力する》(※1)
 そうお師匠(マキャベリ)様(さん)がのたまわったように、久秀は赤面するどころか案外開き直っており、信長もそんな傲岸不遜さを評価していたがゆえに、悪ふざけしてみせたとの感がないでもないのだが近年、「久秀はそこまで悪人ではない」との説が定着しつつある。
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若草山から奈良市内をのぞむ。左端が東大寺大仏殿。右端が若草中学校を中心とした多聞山城跡 (関厚夫撮影)

 まず「主君・三好氏殺害」についてはどうやらシロ。大仏殿焼失は敵対する三好三人衆と交戦中の不慮の出来事であり、久秀が放火したというよりも三人衆側の失火という説が有力なのだという。
 残るは室町幕府13代将軍、足利義輝殺害事件である。

 これは永禄8(1565)年5月(旧暦)、京の義輝を久秀の主家、三好義継と久秀の嫡子、久通(ひさみち)らの軍が急襲し自害に追い込んだ−というもので、久秀が直接手を下したわけではない。このため久秀の積極的な関与を疑う見方もあるが、首謀者か否かは別としてその一味であったことはまちがいないだろう。
 なるほど傲岸な男であったにちがいない。若草山の山頂から往時をしのびながら奈良市内を眺めた。左(南)には東大寺・大仏殿や興福寺・五重塔。そして右(北)。現在の若草中学校の敷地を中心にこれら古都の巨大建築を威圧するようにそびえ立っていたのが、久秀が築城した傑作・多聞山城だった。
 多聞山城には天守の先駆けとなる「4階櫓(やぐら)」があったとされ、宣教師が壮麗さを絶賛した。さらにその城域は不遜にも西南に接する聖武天皇陵や光明皇后陵にも及んでいたという。4階櫓から久秀の眼前に広がっていたのは「覇王の景色」だったことだろう。
 その多聞山城跡から西南へ約20キロ。足を踏み入れると、創建以来千数百年の「気」を感じさせる祈祷(きとう)の大音声が響いていた。毘沙門天を本尊とし聖徳太子の建立とも伝えられる信貴山中腹の朝護孫子寺(ちょうごそんしじ)(奈良県平群(へぐり)町)である。

 「ようおまいり」
 行き交う参拝者とそう声を掛け合いながら、本堂から汗をかきかき登ること約15分。空鉢(くうはつ)護法堂のある山頂から放射線状に築かれていたのが、久秀がそこから「畿内に覇を唱えた」とされる信貴山城だった。南北700メートル、東西550メートル。甲子園球場の総面積の5倍という城郭の大部分は現在、杉林に覆われている。
 天正5(1577)年秋、信長の嫡子、信忠率いる織田軍は朝護孫子寺を焼き払い、信貴山城の久秀に迫った。そして10年前に大仏殿が焼け落ちた10月10日、久秀は自害する。数えで70歳(68歳説も)。爆死−という説については現在、疑問視されているが、秘蔵の茶器「平蜘蛛(ひらぐも)釜」を道連れにしたことは確かである。
 《この世で偉業を成し遂げ、同時代の人びとの中でも傑出していた面々のすべてというかそのほとんどが、もともと卑しくまた誰知るよしもない出自であった》(※2)とは、お師匠様の『カストルッチョ・カストラカーニ伝』の書き出しである。
 だから、というわけではないが、久秀の出自も判然としない。諸説あるなか摂津国東部・東五百住(よすみ)(大阪府高槻市)の有力者だったという説が近年になって注目されている。ただ、いずれにせよ父親の名前さえわかっていない。

 久秀は「信長の先駆者」とも称される細川管領家の重臣、三好長慶の家来として台頭し、長慶が管領家を押しのけて幕府内と畿内随一の勢力となったとき、久秀は異例なことに因縁の将軍、義輝から三好氏と並んで直属の側近に取り立てられる。長慶の死後は同僚の三好三人衆とともに政治を壟断(ろうだん)したあげく三人衆と抗争を展開。ここで劣勢とみるや、逸品「つくも(九十九(つくも)髪)茄子(なす)」(ナス形の茶入れ)を贈呈して信長といち早くよしみを結ぶ−。
 下克上の典型、時代の申し子のような変わり身の早さは信長に臣従した後も続く。
 最初の反逆は「最後の将軍」足利義昭を中心とした包囲網のため信長にとって苦境の連続だった元亀3(1572)〜翌天正元年。「その弁明はつらにくい」としながらも、信長は多聞山城の没収(後に徹底的に破却)と久秀の跡取り、久通の幼い嫡子を人質に差し出すことで久秀を許した。2度目−最後の反逆はそれから4年後なのだが、信長は当初「いったい何が不満なのか。思う存分を申してみよ」と使いに伝えさせ、久秀を懐柔しようとしている。これはいったい…。

 「一つに前回紹介した『常山紀談』の『朽木(くつき)越え』の逸話が本当だとすれば、信長は久秀に『窮地を救われた』という恩義を感じていたこと。それよりもおれは、神仏も将軍も怖(おそ)れぬと同時に城造りと茶湯の名人でもあった久秀に信長は『分身』を見た。ゆえに失うことを惜しんだとみているんだがな。だいたい、信長の書状を読むと2回目の謀反の首謀者は久通だとみているようじゃねえか」
 なんでいいところになると突然登場するのだ? 歯がみする筆者を前に、お師匠様は涼しい顔である。
 「ところでだ、疑うむきもあるが、信長が熱望していたとかいう平蜘蛛釜を千利休の高弟、山上宗二(やまのうえ・そうじ)は『今は用いず(流行遅れ)』と評した。ここらにも久秀が信長と決裂したヒントがあるだろう。『不確かな利益のために、確かな勝利を犠牲にした』(※3)。息子への情に溺れたのか、常に勝ち組だった己の過去の栄光に惑わされたのか、勝算のない謀反に身を投じる。悲しいかな、時代の寵児(ちょうじ)も老いたということさ」(編集委員 関厚夫)
 ※1 岩波文庫『フィレンツェ史(上)』 ※3同(下)
 ※2 筑摩書房『マキァヴェッリ全集1』

*2017.09.03 産経新聞より
(http://www.sankei.com/life/news/170903/lif1709030034-n1.html)

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