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zoom RSS 【マキャベリ流−是非に及ばず】(38)

<<   作成日時 : 2018/01/13 22:27   >>

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 日本史に関する記事では定評のある産経新聞、今回は数々の著作もある論説委員の関厚夫さんが、マキャベリをとおして日本史を語ります。必見です。

NOBUNAGA(38)人は、恩恵への感謝より損害への復讐の念がはるかに強い

 織田信長に対して2度にわたり反逆した末、奈良・信貴山城で逸品茶器「平蜘蛛(ひらぐも)釜」を道連れに壮絶な最期をとげたと伝えられる松永久秀。そんな「戦国期きっての梟雄(きょうゆう)」が窮地にあった織田信長を救った−という話がある。
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信貴山城跡の「松永屋敷跡」で=奈良県平群町(関厚夫撮影)

 ときは元亀元(1570)年4月(旧暦)、妹婿の浅井長政が突然反旗を翻したため“袋のネズミ”となった信長が、越前・金ヶ崎城(福井県敦賀市)から命からがら退却するさいのことである。
 京の都を目指す信長の一行は近江国(滋賀県)北西部の朽木(くつき)元綱の所領にさしかかった。鎌倉時代以来の名族・朽木氏はこのころ、新興の戦国大名、浅井長政を「盟主」と仰いでいた。その一方で朽木氏は代々足利将軍家に近く、政争に敗れて逃れてきた12代将軍の義晴や13代の義輝をその地に迎えるなど将軍直属の奉公衆に数えられていた。
 この時点では信長と15代将軍、義昭の関係はまだ決裂はしていなかった。前年正月に義昭が京都で三好三人衆の急襲を受けたさいには、信長は朽木氏と協力して三好勢を撃退したこともあったという。
 が、はたして現在、目前の朽木氏は敵か味方か。当時、数えで22歳の朽木元綱の心中を図りかねていた信長のもとに松永久秀が進み出た。

 「朽木の家は古いなじみであります。拙者からよく申し聞かせて人質を出させてご案内をさせましょう。もし朽木が聞き入れませぬならば、刺し違えて死ぬまででござる」
 久秀はそう豪語するや馬を走らせ朽木陣営に向かった。そして元綱ともども帰陣し、見参させたという。
 話は前後するが、「浅井長政謀反」の報が信長陣営に入り、全軍が浮足立ち始めたときのこと。いまだ長政の裏切りを信じかねている信長は、久秀を呼び出し、「明日は人馬を休ませるが、以降、一気に標的である越前・一乗谷(福井市)の朝倉義景のもとに攻め込もうと考えているのだが、老巧者のそなた(久秀は当時60代前半だった)はどう考える」と尋ねた。
 「仰せはごもっとも。しかしながら今回は初めての遠征で道も不案内のうえに、義景の本拠まで切所難所が続きます。ものごとはあまりうまくいきますと、かえってよくないもの。これまでの大勝利を手みやげに凱旋(がいせん)帰京するのがよろしいかと存じます」
 わざと本意ではない強攻策を口にしたが、これならば退却の名分が立つ。わが意を得た信長は「老人(久秀)の意見もっともである」とほめ、急ぎ帰京の準備をさせた−。

 以上は「総見記(織田軍記)と織田家譜にある」として、最近『関ヶ原』が映画化された国民作家、司馬遼太郎を見出(いだ)した小説・史伝家、海音寺潮五郎が『悪人列伝』の「松永久秀」で紹介している。
 「他(人)に好意を示す時は、進んでする方がよい、嫌々ではなく、喜んでそうする方がよい」(※1)
 一線の外交官としてお師匠様(マキャベリさん)が、日の出の勢いがあった当時の「信長になれなかった男」、チェーザレ・ボルジアに食い込もうとしていたときの書簡の一文だ。久秀はお師匠様にしてみれば“優等生”だったといえるだろう。
 ところが、なのである。
 調べてみると、後者の逸話については『総見記』だけでなく『朝倉記(越州軍記)』や『朝倉家記』にも似たようなことが記されている。だが問題は前者の「朽木越え」である。『総見記』以下3つの史料にも、「織田家譜」が収載されている『寛永諸家系図伝』や『寛政重修(ちょうしゅう)諸家譜』にも、それらしき記述はない。
 これは弱った。果たして本当に久秀は窮地の信長を救ったのだろうか…。頭を抱えていると、お師匠様の怒鳴り声がとどろいた。

 「おまえは笊(ざる)か! 『諸家系図伝』や『諸家譜』を手にしたのならなぜ『松永久秀』や『朽木元綱』を引いてみない? 武家としての松永氏は滅んでしまったから黙殺されているかもしれないが、子孫が大名として明治維新を迎えた朽木氏は載っているに決まっているじゃないか! それから『常山紀談』。そこにある松永の逸話を目を皿にして読んでみろ!」
 しまった、ぬかった、にわかの残暑で頭がまわりきらなかった。早速見直すと、案の定「松永久秀」は見当たらなかったが、「朽木元綱」はあった。ともに「朽木越え」について大同小異ながらこんなエピソードを伝えている。
 〈信長が朽木の所領に入ろうとすると、元綱は甲冑を身につけ、兵を率いて信長を迎えようとした。その姿を見た信長は、元綱が危害を加えるために武装しているのではないかと疑った。ここで久秀が元綱のもとに赴き、道理を説いたため、元綱は兵を下げ、自身は甲冑を脱ぎ、上級公家が着る単(ひとえ)で袖広の道服(どうふく)を着て信長への謁見に臨んだ。信長は大いに喜び、元綱を先導役にして京に無事戻った〉
 そして『常山紀談』。あった、あった。「信長公松永弾正(久秀)を恥ぢしめ給ひし事」の項に「家康が重臣に語った」として『悪人列伝』とそっくりの話があった。

 が、江戸前期成立の『寛永諸家系図伝』に対して随筆『常山紀談』の成立は中期。そのドラマチックな展開をどこまで信じてよいものかについては若干心もとないところもあるが、久秀が信長の意向を忖度(そんたく)し、奔走していたことは確かなようだ。よかった、よかった…。
 「何というお気楽さだ!」
 再登場のお師匠様が顔を真っ赤にしながらほえた。
 「だいたいおまえは『久秀は信長を救った。だから信長は一度裏切った久秀を許し、再度裏切ったときも最初は許そうとしたのだ』ということを言いたくて『朽木越え』の話をもちだしたんだろう。それがあっちへうろうろ、こっちへうろうろ、結局本題の『なぜ久秀は信長を裏切ったか』のさわりにも入れぬとは…。『人はその本性からして、恩恵に対する感謝の念より、損害に対する復讐(ふくしゅう)の念のほうがはるかに強い』(※2)。まずはこのおれさまの箴言(しんげん)をかみしめておけ!」(編集委員 関厚夫)
 ※1 筑摩書房『マキァヴェッリ全集5』
 ※2 岩波文庫『フィレンツェ史(上)』

*2017.08.27 産経新聞より
(http://www.sankei.com/life/news/170827/lif1708270015-n1.html)

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