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zoom RSS 【マキャベリ流−是非に及ばず】(37)

<<   作成日時 : 2018/01/08 22:56   >>

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 日本史に関する記事では定評のある産経新聞、今回は数々の著作もある論説委員の関厚夫さんが、マキャベリをとおして日本史を語ります。必見です。

NOBUNAGA(37)お師匠さまが手紙で賛美する女性 奥方でないのがひっかかる

 《いやしくも、女をいったん怒らせたなら、/それが間違いにせよもっともなことにせよ、/泣き落としで女の哀れみ心を動かせると思うのは/笑止千万。/女はこの世に生まれ落ちたとき、/魂とともに持ってきたのだ、/傲慢と策略と、赦しをすっかり忘れた心を。/欺瞞(ぎまん)と残酷がともにいて、/女を手助けするのだ、/彼女があらゆる企てについて望みを成し遂げるように。/そして、もしも辛辣(しんらつ)で意地悪い怒りが/彼女を動かすか、嫉妬心を備えるようにと作用するなら、/女の力はこの世の力を超えるのだ》(※1)
 お師匠(マキャベリ)様(さん)作の喜劇(戯曲)『クリツィア』で歌われるカンツォーネである。
 「師匠(マエストロ)、女性の取り扱いでよっぽど苦労されたんですねえ」と、同情したくなる。「ここで歌われる『女』とは運命の女神のことに決まっているだろう! まったく無粋な奴(やつ)だ!」−と逆襲をくらいそうだが、風刺のきいた寓話(ぐうわ)『大悪魔ベルファゴール』の冒頭にはこんな一節がある。
 《大罪を犯して死んだ哀れな人びとの数限りない霊魂が地獄に堕(お)ちて、そのすべてあるいは大半がほかならず妻を娶(めと)ったがために大いなる不幸に陥って(陥ったとして)、不平を唱える》(※2)

 お師匠様らしい「笑(わら)かし」はあるだろう。だが、反乱軍に領主である夫を殺された後、わが子を人質に取られていながら、城壁で“恥部”を示しつつ「子供などこれからいくらでもつくってみせる」と一喝し、最終的に反乱軍を撃退したという女傑の領主夫人がいた(お師匠様は『政略論』でそんなエピソードを紹介している)時代である。さすがのお師匠様も手を焼くほどの強い自我と凜(りん)とした個性をもつ女性が数多くいたのだろうな、と思う。
 戦国時代の女性も凜とした個性をもっていた。お師匠様が生きたルネサンス後期とは少しちがった意味で。
 織田信長に反旗を翻した荒木村重が、それまで拠点にしていた有岡城(兵庫県伊丹市)から尼崎城に退去してから約2カ月半後の天正7(1579)年11月中旬(旧暦)、裸城となり、「村重に投降を説得する」との理由でほかの有力家臣も去った有岡城は開城するしかなく、残された村重や家臣たちの妻子たちは、とらわれの身となった。

 《霜がれに残りて我は八重むぐらなにはのうらのそこのみくづに》
 25歳ほど年の差がある村重の側室とされる「たし(だし)」がそのさい村重に送った和歌である。「自分の身は霜月(11月の旧称)の霜で枯れてしまった八重葎(やえむぐら)(雑草)みたいなもの。あとは難波沖の海底の水屑(みくず)となるだけでしょう」との意味であろう。
 裏切り者へのみせしめということだろう。信長は、村重の嫡子に嫁いでいた明智光秀の娘を例外として、妻女やお付きの者、子供など有岡城に残された約700人に死を命じる。たしをはじめ荒木一族など約40人は京の都大路を車で引き回されたうえ、六条河原で処刑される。このとき、たしは数えで21歳。『信長公記』は記している。
 〈たしは名が知れた美人であった。これまで、かりそめにも人々の好奇の目にさらされるようなことはなかったのに、時の勢いには勝てぬということだろう。まことに乱暴な卑賤(ひせん)の者どもの手で追い立てられ、肘をつかまれて車に力ずくで乗せられた。最後、たしは車から下りるさいに帯を締め直して髪を高々と結い直したうえ、小袖の襟の乱れを直し、気品を失うことなく首を斬られた。そんな姿を目の当たりにしたため、残された妻女たちの最期はみな、立派だった。だが、侍女や召使いたちは人目もはばからずにもだえ嘆き、泣き叫び、哀れであった〉

 たしと村重の間には幼子があったが、同盟先の毛利氏の人質となっていたのか、たしとは離れて暮らしていたようだ。彼女は母としての思いを以下の2首にたくしている。
 《きゆる身はおしむべきにも無き物を母のおもひぞさはりとはなる》
 《残しをくそのみどり子の心こそおもひやられてかなしかりけり》
 たしだけではない。運命が変転する戦国時代、女性は男性以上に、厳しい覚悟を迫られることになった。
 ご存じのように信長の妹、お市の方もその一人。信長に反旗を翻した最初の夫、浅井長政は自害の前に彼女と娘の3姉妹を信長に送り返す。そして彼女は次に嫁いだ柴田勝家が豊臣秀吉に滅ぼされたさい、夫と運命をともにする。
画像
お市(左端)と娘の「浅井三姉妹」の像=福井市、北の庄城址・柴田公園(関厚夫撮影)

 お市の娘たちも淀殿をはじめ、母以上に運命の変転に翻弄される。その一人、徳川幕府第2代将軍、秀忠の正室となった三女の崇源院(すうげんいん)(お江(ごう))。彼女の末娘、和子は後水尾(ごみずのお)天皇の皇后となり、その皇女はのちに称徳天皇以来の女帝、明正(めいしょう)天皇として即位する。長政の曽孫。滅ぼされた浅井氏にとって、これ以上の弔いはなかっただろう。

 「今回ばかりは一本とられたかな。でも勘違いするな。それはお前に、ではなく、戦国乱世を生きた女性たちに−だ。またおれさまは女性軽視論者でも女性恐怖症でもないぜ。その証拠に500年前−1514年8月3日付のおれの手紙を読んでみな」
 お師匠様はいつになく殊勝な表情である。早速そのくだりを読んでみると−。
 《ある女性に出会いました。とても優雅で上品で気高く、生まれも育ちもよくて、どれほど讃えどれほど愛しても、彼女にふさわしい賞賛と愛を捧げることができないくらいです。(中略)たとえ私の嗜好(しこう)と違ったり反対だったりしても、何でも彼女の好みに合わせています。たいへん骨の折れることを始めてしまったようですが、たとえこの世のどんなものと引き替えにしようとも、この労苦から解放されたいとは思いません》(※3)
 なるほど、お師匠様はまことに女性賛美者である。が、この「ある女性」がお師匠様の奥方ではないのが少々ひっかかるのだが…。(編集委員 関厚夫)
 ※1、2 筑摩書房『マキァヴェッリ全集4』
 ※3 同全集6

*2017.08.20 産経新聞より
(http://www.sankei.com/life/news/170820/lif1708200028-n1.html)

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