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zoom RSS 【マキャベリ流−是非に及ばず】(36)

<<   作成日時 : 2018/01/07 23:47   >>

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NOBUNAGA(36)死は苛酷なれど、名声は永遠なり。末長く記憶せられん

 《人間というものは嘘つきで気の許せないものであり、もってまわったえたいのしれぬ行動をとり、自分の利益についてはきわめて敏感で、他人の利害についてはてんで眼中にないものなのだから、あまり信頼せず、また信用もしないようにしていたら、ひどい目に会うはずはない》
 いやはや、「それを言っちゃあ」というか…。お師匠(マキャベリ)様(さん)の親友、F・グイッチャルディーニの『フィレンツェ名門貴族の処世術』の一節だ。ところが確かに、戦国時代、織田信長に反旗を翻したうえ、どうにもえたいのしれない行動をとった武将がいた。
 荒木村重。信長に仕えたのはつごう5年ほどであり、譜代ではない。『信長公記』が記す「一僕の身」(下男)ではなかったにせよ、出自については不明な部分が多い。
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『太平記英勇伝』の「荒木村重」。口にくわえているのは、「織田信長」が刀に突き刺したまま差し出したまんじゅう(伊丹市立博物館所蔵)

 荒木一族は摂津国中部の池田氏の郎党だった。村重はまず主家の内紛に乗じて頭角を現す。そして天正の初め、まだ「反信長」が多勢を占めていた畿内でいちはやく信長のもとに参じ、池田氏や近隣の有力者を追いやって摂津一国を任された。下克上の典型例といえるだろう。

 〈天正6(1578)年10月21日(旧暦)、摂津国をあずかる荒木村重が逆心を抱いているという情報が方々から寄せられた。信長様は「そんなはずはなかろう」とお考えになり、明智光秀らを派遣し、「何か不満なことがあるのか。思ったままこの者たちに申せ」と伝えさせたところ村重は「反逆の心などまったくございません」と答えた。信長様はお喜びになり、「人質として母をよこし、村重本人も出仕してくるように」と命じられたが、謀反をたくらんでいたので、信長様のもとに参ることはなかった〉
 『信長公記』の記述である。村重は本願寺勢力や中国地方の覇者である毛利輝元、また輝元が保護している室町幕府最後の将軍、足利義昭と周到に計画を練っており、満を持した謀反劇−のはずだった。ところが、重臣と頼りにしていた摂津国東部・高槻城の高山右近、茨木城の中川清秀らが次々と信長側に投降。村重率いる“反乱軍”は有岡城(兵庫県伊丹市)や尼崎城、花熊(はなくま)城(神戸市)、三田(さんだ)城などを中心に摂津国西部に点在する拠点に籠城することを余儀なくされる。
 《信用のおける人物というのは、せいぜい一人か二人くらいしか見つからないものである。(中略)人間は他人が自分に好意をよせていると買いかぶりすぎて、裏切られがちなものである》(※1)
 お師匠様の『政略論』の一節だ。信長にも村重にもあてはまる真理といえようか…。
 翌年9月、村重は突如、それまで籠城していた有岡城から尼崎城に移る。
 「このまま毛利からの援軍がなく、有岡城の兵糧が尽きるようであれば、信長勢と戦いながら有岡城内の妻子たちを移動させよう。それが実現できないなら、尼崎・花熊城を差し出して命ごいだ」
 『信長公記』によると、村重はそう言って城兵を力づけてからまもなく、人目を忍ぶようにして有岡城を去った。一方で村重は補給基地としての尼崎城を重視し、援軍に向かったのだ−とする擁護論もある。だが、いずれにせよ、村重がとった行動は戦国時代有数の惨事を招いた。
 主(あるじ)を失った有岡城は足軽大将らが寝返るなど動揺。2カ月半後、「村重に投降を説得するため」との理由で主な部将が妻子らを人質として有岡城に残したまま尼崎城に向かう。そして師走。『信長公記』によると、この妻子ら約160人は処刑され、お付きの男女ら約510人は4つの民家に押し込まれたうえで火を付けられ、焼き殺された。
 この虐殺を命じた信長が「残酷」と非難されるのはもっともだし、覚悟していたことだろう。だが、その原因をつくった村重の責任もそれ以上に重い。「人質となった一族郎党を見殺しにして毛利氏のもとに脱出した」(「日本人名大辞典」)。彼はそんな汚名を後世から冠される。

 「しかしお前は相変わらず進歩がねえな。もってまわったようなことばかり言っていて、肝心の『なぜ村重は信長を裏切ったか』がちっともわからねえじゃねえか」
 「いや、それはこれから…」と筆者が言い訳する間髪の余裕も与えず、お師匠様はまくしたて始めた。
 「そらあ『謀反の嫌疑をかけられたから先手を打った』説をはじめいろいろな説があるよ。でも、ここで信長って野郎はまったくもってこうるさい上司だってことを思い出してみな。たとえば天正4年に信長が村重にあてた一連の指令書たるや、細かいわ多岐にわたるわ−。辟易(へきえき)する以上に、どこでどうマイナス査定されてクビが飛ぶかわかったもんじゃない。恐怖と嫌気が積み重なって、ということだろうな。それから羽柴(豊臣)秀吉。簡単にいえば、秀吉との出世競争に負けたからだが、おれは秀吉という男は織田家中でも結構なトラブルメーカーだったとふんでるんだ。そうそう、別所長治が、信長に背いたのも秀吉が一枚かんでいるだろう」
 悔しいがその通りである。『別所長治記』によると、「織田軍中国方面司令官」として派遣された秀吉の出自と態度に対する反感から天正6年春、村重に先だって播州三木城主の長治は反旗を翻す。そして兵糧攻めに耐えること約2年。長治は自らと妻子、一族の命と引き換えに城兵を助命することを条件として降伏する。
 《今は只(ただ)うらみもあらず(じ)諸人(もろびと)の 命にかはる我が身とおもへば》

 数えで23とされる長治の辞世である。その最期は、信長没後も生きのび、天正14年、「千利休の七哲」とも称される茶人として畳の上で息を引き取った村重とは対照的である。
 「死は苛酷なれど、名声は永遠なり。事は末長く記憶せられん」
 お師匠様が『フィレンツェ史』(※2)に残した格言である。手向けるべきは長治かはたまた村重か…。(編集委員 関厚夫)
 ※1 中央公論社『世界の名著21マキアヴェリ』
 ※2 筑摩書房『マキァヴェッリ全集3』

*2017.08.13 産経新聞より
(http://www.sankei.com/life/news/170813/lif1708130012-n1.html)

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