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zoom RSS 【マキャベリ流−是非に及ばず】(35)

<<   作成日時 : 2017/12/30 23:01   >>

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 日本史に関する記事では定評のある産経新聞、今回は数々の著作もある論説委員の関厚夫さんが、マキャベリをとおして日本史を語ります。必見です。

NOBUNAGA(35) 祖国への愛とは、生来そなわったものである

 前回は少し寄り道をしたが、それにしても、と思う。北近江の戦国大名、浅井長政は少なくとも2度、織田信長を最大の危機に陥れたにもかかわらず、なぜとどめをさすことができなかったのか。
 元亀元(1570)年4月(旧暦)、突如反旗を翻し、越前・金ヶ崎城に滞陣中の信長を“袋のネズミ”にしたさいは信長の逃げ足が速すぎたという誤算があっただろう。
 しかし、問題はその半年後である。長政は、本願寺勢力や比叡山・延暦寺らと強力な「信長包囲網」を形成したうえ、越前の朝倉義景とともに延暦寺の門前町である西近江の坂本を拠点に一時は京都近郊にまで迫る。
 この後、信長の敗色が濃いまま持久戦となり、結局は、正親町(おおぎまち)天皇と朝廷による調停によって講和が成立する。この結末については「浅井・朝倉氏は、(比叡)山上に陣を構えるという有利な位置を占めながら、結局は決戦に出ることがなかった。(中略)優柔不断によって勝機を逃してしまったのである」(谷口克広氏「浅井長政と織田信長」)と長政に芳しくない。

 また、「結果論になるが、浅井・朝倉が和平交渉を受諾したのは千慮の一失というほかない失態であった。戦国大名として生き残りをはかるならば、両者は信長の要求に屈服すべきではなかった」(今谷明氏著『信長と天皇』)とも評されている。
 結局、長政も義景も戦国大名−乱世の指導者(リーダー)としては人がよすぎた、いや甘すぎたということか…。
画像
浅井長政像=滋賀県長浜市(関厚夫撮影)

 「おいおい、詰めが甘いのはどちらのほうだ。いったいお前は『東浅井郡志』に目を通したのか?」
 お師匠様(マキャベリさん)である。『東浅井郡志』? ルネサンス期のイタリア人のくせになんでそんなローカルな史書をもちだすんだ? 困惑する筆者を愉快そうに眺めながら、お師匠様の長口上がはじまった。
 「浅井氏について『対外的には、戦ふ毎(ごと)に常に敗れながら、対内的には、戦ふ毎に次第に地歩を占め来(きた)れるは、注意すべき現象なり』と書いてあるだろう。もっともこれは長政のじいさん、亮政(すけまさ)についてのことだが、浅井とはそういう一族なんだよ。『もし、時節や事態が慎重に忍耐づよく国を治めている君主に適していれば、その君主は隆盛へと向かう。だが、時節も事態も変化したのにその君主が行き方を変えないとすれば、衰える。しかし、こうした状勢に即応できるような人間は、実はなかなかいない。用意周到な男は、いざ果敢にふるまう時節がやってきても腕をこまねいているばかりで、破滅してしまう』

(※1)とはおれさまの『君主論』の金言だ。まるで長政じゃねえか。あいつの性格は信長の野郎とは対極にあったんだろうな」
 (ちぇっ、またいいとこ取りをされたか…)
 ふてくされる一方の筆者を前に、ますます上機嫌なお師匠様は続けた。
 「それよりも今回も『裏切られ信長』シリーズなんだろう。せっかくだから『裏切り者』が裏切られてゆく、そんな哀れな末路も眺めてみることにしようや」
 天正元(1573)年8月(旧暦)。12日に浅井氏の居城・小谷城がかつて本丸を置いていた大嶽(おおづく)城(砦(とりで))が落ちた後、浅井・朝倉軍はみるみるうちに崩壊していった。
 朝倉軍は浅井氏を見放して本拠地・越前へと敗走した。信長軍の主力はまず朝倉軍を追撃。朝倉義景は本拠地・一乗谷からさらに東へと落ちのびるが、いとこの重臣、朝倉景鏡(かげあきら)の裏切りによって自害に追い込まれる。大嶽落城から8日後のことだった。
 浅井長政の家臣も次々と寝返った。話は前後するが、大嶽落城の4日前、小谷城から約6キロ西にある山本山城の重臣、阿閉貞征(あつじ・さだゆき)が羽柴(豊臣)秀吉を通じて織田方に走る。絶好機到来とみた信長が本格的な小谷城攻めを開始すると近臣の浅見対馬守をはじめ、離反する者が相次いだ。

 一方で、すでに勝敗は決しているにもかかわらず、主君・長政と命運をともにする家臣もまた、多かった。長政はそんな忠臣たち一人一人に感状(戦功を認め、称賛する賞状)を与えている。
 「今度の戦(いくさ)では思いがけずもこの本丸を残して全て信長の手に落ちた。最後まで脇目もふらずに籠城して戦い、ひときわ忠節を尽くしたこと、その比類のない覚悟に感謝の言葉もない。殊に皆々逃走するなかでの無二の振る舞い、この書状ではそなたの功をとても表すことはできぬ」
 そう、29日付の「最後の感状」をつづったあとまもなく、長政は自害する。数えで29歳。付き従っていた家臣は約100人。攻防戦全体では計約700人が浅井家のために殉じたという。長政が発した感状は、謀反が横行した戦国期における貴重な「武士道の証(あかし)」として子々孫々に伝えられていった。
 「『祖国への愛とは、生来そなわったものだ。指揮官への愛は利益がらみというよりはむしろ、力量(ヴィルトゥ)にかかっている』(※2)。おれの『戦争の技術』にある言葉だ。信長にとって長政は裏切り者さ。しかし、その長政は指揮官としての力量だけでなく、『祖国』をも感じさせる存在だったのだろうな。だから、最後までともに戦い続ける家臣が義景よりはるかに多かった。なあヴィーコ、そうだろう」

 ? ヴィーコ? 誰だそれは? しかも遠くを見つめるお師匠様の瞳がうるんでいるではないか。
 おかしい。後日、ロベルト・リドルフィの大著『マキァヴェッリの生涯』で調べてみた。「ヴィーコ」とは、粗暴な行為で何度も裁判沙汰になったお師匠様の「不肖の次男」、ロドヴィーコのことだった。彼はお師匠様が病没した3年後、あとを追う。その最期について、お師匠様以外の人物にはきわめて辛口なリドルフィはこう記している。
 《ロドヴィーコはフィレンツェが包囲攻撃を受けた際、自由な共和国のために戦って死んだ−。少なくともこの点では父親にふさわしい子でなかったわけではない》(編集委員 関厚夫)
 ※1 中央公論社『世界の名著21マキアヴェリ』一部編集
 ※2 筑摩書房『マキァヴェッリ全集1』

*2017.08.06 産経新聞より
(http://www.sankei.com/life/news/170806/lif1708060020-n1.html)

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