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zoom RSS 【マキャベリ流−是非に及ばず】(33)

<<   作成日時 : 2017/12/17 23:14   >>

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 日本史に関する記事では定評のある産経新聞、今回は数々の著作もある論説委員の関厚夫さんが、マキャベリをとおして日本史を語ります。必見です。

NOBUNAGA(33)憎まれることを怖れずして、軽蔑されることを怖れよ

 織田信長にとって最大の強敵はだれだっただろう。

 武田信玄? 上杉謙信? 最大最後の一向一揆「石山本願寺合戦」を率いた顕如?
 いずれも甲乙つけ難いが、一人、少なくとも2度、数え方によっては3度にわたって信長を絶体絶命の危機に追い詰めた武将がいる。
 浅井長政である。
 北近江の戦国大名。信長の妹、お市を正室として迎えていたが、元亀元(1570)年4月(旧暦)、突然、反旗を翻し、越前国の朝倉義景を掃討するため遠征中の信長は金ヶ崎城(福井県敦賀市)で“袋のネズミ”となる。
 2カ月後、長政・朝倉軍は九死に一生を得た信長と徳川家康の連合軍を相手にした「姉川合戦」で大敗した−と伝えられるが、実はかなりの余力を残していたようだ。というのも本願寺勢力や比叡山・延暦寺、三好三人衆らとの「信長包囲網」をフル稼働させ、この年秋には朝倉義景とともに京都近郊に迫る。信長にとって「最大の危局」(奥野高廣氏)であり「最大の危機」(谷口克広氏)だった。
 信長はこの窮地を正親町(おおぎまち)天皇の勅命と朝廷の調停という外交攻勢でしのぐ。一方、長政は再び包囲網を形成するが、元亀4(天正元)年春、信長と雌雄を決すべく西上中だった武田信玄が病没したことが分岐点となり、同年秋、浅井氏は朝倉氏とともに信長によって攻め滅ぼされる。

 28年の生涯。そのうち最後の3年間を支配していたのは「反信長」の一念だった。

 《「嫉妬」、「怠惰」、「憎悪」が彼女ら(野心の女神と強欲の女神)とともに世界にその害悪を撒(ま)き散らすのだ。更には「残忍」、「傲慢」、「欺瞞(ぎまん)」までが加わって》(※1)と、お師匠(マキャベリ)様(さん)は諷刺(ふうし)詩「野心について」でつづっている。いったい何が長政を駆り立てていたのだろう。「憎悪」か、「嫉妬」か、それとも…。
 「小谷城跡めぐりですか? 山城ですから登山路なら往復3時間半でしょうか。でも車を使えば登山路わきの林道を通って5分で『番所跡』。そこから『本丸跡』まで歩いて20分くらいですよ」
 幸い、レンタカーを借りている。「楽をしよう。長政や家来衆も途中まで馬で登っていたに違いないさ」。そんな内なる声を押さえつけ、難路を選んだが、やはりつらい、歩みが遅い。学校の集団登山だろうか、脇を中学生たちがぴょんぴょんと跳びはねるようにして登ってゆく。ああ、自分にもあんな時代があったはずなのだが…。

 “千畳敷”の「大広間跡」や隣接する「本丸跡」を経て「山王丸跡」へ。斜面はなだらかだ。「小谷城は『戦国五山城』の一つというが、信長とちがって、いったん登ってしまえば浅井氏は城づくりが人にやさしいや」と早合点。1キロほど先の曲輪(くるわ)とされ、かつて本丸が置かれていたという「大嶽(おおづく)(城跡)」を目指したのが間違いだった。
 「ここを下りるのか?」という急峻(きゅうしゅん)があるかと思えば、登っても登っても終わらない石段。ほうほうの体で到着すると絶景が待っていた。標高は約500メートル。「本丸跡」よりも百数十メートル高い。
画像
かつて小谷城の本丸があった「大嶽(城跡)」から=滋賀県長浜市(関厚夫撮影)

 天正元(1573)年8月12日(旧暦)。この「大嶽」が信長の猛攻によって落ち、加勢の朝倉勢が敗走したとき長政の命運は尽きた。
 〈浅井長政は元来、少身(身分・禄高が低いこと)なので、成敗するにも物の数にも入りませぬ〉
 「姉川合戦」の後、信長は中国地方の覇者、毛利元就にそんな書状を送っている。信憑(しんぴょう)性に問題があるのが難点だが、小瀬甫庵(おぜ・ほあん)の『信長記』によると、両者の決裂前、家臣との評定が長びき、なかなか合戦に腰を上げようとしない長政を、信長は「大ぬる者」と酷評している。

 信長にとって、長政と浅井氏は家格でも実務能力でも劣っていた。にもかかわらず、妹を嫁がせ、北近江の所領を安堵(あんど)した。信長にしてみれば破格に近い恩典だが、お師匠様の親友であるグイッチャルディーニいわく、「恩を与えてやった人間は、それを忘れてしまうか、実際より過少にしか感じないか、世話をしてもらうのが当たり前だと考えてしまうものだ」(※2)。だが、浅井氏の場合はそれだけではないようだ。
 浅井氏は国衆(くにしゅう)(国人(こくじん))出身の戦国大名である。
 「国衆」とは、連帯して「幕府権力・荘園領主・守護のような外来勢力と対抗し、独自の支配権を確立しようとした」(『国史大辞典』)、在地領主・武士の集合体のこと。その武力闘争である国人一揆は「平等を基礎にした契約的関係で結ばれ、事の理非を決定する際に、多数決制を採用していた」(『日本大百科全書』)という。
 「わかった、わかった。『共和国のばあいは衆議をへなければならないところから、政治上の決定は遅滞を伴う。ために、君主国にくらべてつねにみずからの思いのままの行動を起こしにくい』(※3)。おれさまの『政略論』にあるこの名言のうち、『共和国』を浅井氏、『君主国』を織田家と考えればいいということだろう。そして長政を頂点とする浅井氏は衆議こそ正義であり、信長流は独裁で悪だとみなし、存亡をかけても受け入れられないとした−と言いたいんだろう」

 (鳶(とんび)に油揚げさらわれたとはこのこと!)。内心舌打ちする筆者を尻目にお師匠様は鼻歌まじりである。
 「それよりも、だ。『君主はどこのだれからも憎悪も軽蔑も抱かせないよう振舞わねばならぬ。もしどちらかを放棄しなければならないときには憎まれることを怖(おそ)れずして軽蔑されることを怖れよ。それを怠ったとき、その君主はすでに破滅しているからだ』(※4)。信長の心底にある軽蔑を長政は敏感に悟り、君主としての行動に出た。そういうことじゃないのかね、『大ぬる君』−」(編集委員 関厚夫)
 ※1 筑摩書房『マキァヴェッリ全集4』
 ※2 講談社学術文庫『フィレンツェ名門貴族の処世術』 一部編集
 ※3 中央公論社『世界の名著21 マキアヴェリ』 同
 ※4 筑摩書房『マキァヴェッリ全集6』 同

*2017.07.23 産経新聞より
(http://www.sankei.com/life/news/170723/lif1707230021-n1.html)

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