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zoom RSS 【マキャベリ流−是非に及ばず】(32)

<<   作成日時 : 2017/12/16 22:01   >>

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 日本史に関する記事では定評のある産経新聞、今回は数々の著作もある論説委員の関厚夫さんが、マキャベリをとおして日本史を語ります。必見です。

NOBUNAGA(32)運命の女神が敵を授けなければ、奸計を用いてもつくりだせ

 《君主が自分たちに降りかかってくる苦難や反対を乗りこえると、大君主になることは疑いない。(中略)だからこそ、多くの人の意見によると、聡(明そうめい)な君主は、機会をつかめば、奸計(かんけい)を用いてでも敵対関係をわざとつくりだし、これを克服することによって、さらに勢力を拡大するようにしなければならないのである》(※1)

 お師匠(マキャベリ)様(さん)の『君主論』の一節だ。例の…いやいや、あえて何国(どこ)のだれとは名指しはしないが、「君主」を「トップ」に置き換えれば古今東西を問わぬ真理であろう。
 が、信長にあてはまるかどうか。奸計を駆使したこともあっただろうが、それ以上に「苦難」の方からわさわさと押し寄せてきたとの観がある−などとつづっていると…。
 「お前が『中略』と手を抜いたなかに、おれさまは『それゆえ、運命の女神は、新君主を大物にしようと思うとき、世襲の君主とはちがい、どうしても評判をあげなければならない新君主に、わざわざ敵をこしらえ、戦いをするように強いるのである』と書いているだろう、まさに信長の野郎のことじゃないか!」
 いやいやお師匠様、ご立腹はごもっとも。しかしながらふびんな弟子にもう少し話を続けさせてください。前回の最後におっしゃってたように、ここしばらくのテーマは『裏切られ信長』。運命の女神の仕業とやらで、信長を次々と見舞う「苦難」についてなのですから…。
 一族や家臣、主筋からの裏切りや暗殺計画の連続につぐ連続−。それが父・信秀の死を受け、ハイティーンで家督を継いだ後、信長が直面した世間−戦国期の現実だった。
 〈日本では余りにも謀反が多い〉とは1579(天正7)年度のイエズス会日本年報の観察である。それにしても、青年君主・信長のまわりに渦巻いていた陰謀の数々は尋常ではなかった。
 家臣ではまず、尾張南部・鳴海城を守っていた山口氏が信秀の死とともに隣国の今川氏へと寝返り、約10年後の桶狭間合戦の遠因をつくる。
 主筋の一族である守護代織田家の信安は、信長の宿敵である美濃の斎藤義龍と結び、腹違いの兄の信広も義龍と気脈を通じて反乱を起こす。
 きわめつきは同腹の弟、信勝(行)だ。織田家の筆頭家老、林秀貞や弟の林美作守(みまさかのかみ)、柴田勝家らに擁立され、反旗を翻す。その過程で林兄弟は信長にすんでのところで詰め腹を切らせるところだったし、別に謀反の噂が立ち、思い余った佐々(さっさ)一族が信長を暗殺しかけたこともあった。
画像
ひげのない織田信長肖像画(部分)。描かれたのは信長在世時前後とみられるが、江戸時代の加筆の跡があるという(大本山本能寺所蔵)

 さらには、その危難を救ったばかりか「国主と崇(あが)め」(『信長公記』)て清洲城を譲った尾張国守護、斯波義銀(よしかね)が今川勢とひそかに通じる。発覚後、義銀は追放。このあたり、後年の室町幕府15代将軍、足利義昭との関係をほうふつさせる。

 「『陰謀というものは、大半の場合、それを仕かけた側に破滅をもたらし、仕かけられた側を偉大にする。だから君主は殺されてしまわない限り、ほとんど常により大きな権力の持ち主となる』(※2)とは、おれさまの『フィレンツェ史』の一節だ。まさに『本能寺の変』までの信長の軌跡とは思わんかね」
 再びお師匠様だ。「はあ…」と生返事をしつつ(また我田引水から話が脱線してゆくんじゃないだろうな)と内心ひやひやする筆者をよそにお師匠様は続けた。
 「しかし、だ。陰謀の対象となった者は多く、善良な君主から一転、凶悪な暴君に変貌してしまう。『なぜなら、こうした陰謀は恐怖の原因を作り出し、恐怖は身の安全を求めさせ、身の安全を図ることは他人への侮辱をひき起こし、そこからその後の憎悪を生み、多くの場合、その君主の破滅を生み出すことになるからだ』(※3)。そんなものだが、信長の野郎がもともと模範的な『善良な君主』だったかどうかは別として、あいつは決して『凶悪な暴君』とはならず(これまた異論のある奴(やつ)もいるだろうが)、『善良』な部分をどこかに残していた。そこが偉いところだ。なあ!」
 脱線こそ免れたが、またお師匠様の「無茶(むちゃ)振り」だ。しかしながらそうと知りつつ、援護の論陣を張らねばならない。弟子はつらいよ…。
 くやしい。相当くやしい。調べてみると、お師匠様の言っていることは「あたらずと雖(いえど)も遠からず」である。
 信長について非情だとか、酷薄だとかという評を聞くことがある。しかし、戦国時代とはいえ、若いときからあれだけの周りの者から裏切られれば、人間不信や疑心暗鬼に陥らないほうが不思議だ。
 ところが、けっこう信長は裏切り者に対して寛大なのである。足利義昭や斯波義銀については、命を奪うと「逆臣」のレッテルを貼られる危険性を加味したのだろう(これだけでも信長が単なる「凶悪な暴君」ではないことがわかる)が、兄の信広、また弟の信勝一派についても鎮圧後、帰参を許しているし、佐々一族も後に成政が「越前目付」の一人になるほどとりたてているのだ。
 例外は信勝と戦(いくさ)の最中に信長自ら討ち果たした林美作守。信勝については「再び謀反を企てている」と柴田勝家が密告し、信長が放った刺客によって殺される。
 信長がどのような基準で「堪忍袋の緒」を切るのか。それについては後日に考えることとして、ここでは以下を特筆しておきたい。

 信長は浅井長政や荒木村重、松永久秀(弾正)といった家臣たちによる裏切りを知らされてもはじめは信じなかったり、驚いたりする。つまり信長は人を−一度裏切ったものすら−信頼することができる人物だということだ。お師匠様のいう「善良さ」とはこのことなのだろう。
 「お前にしては上出来じゃないか」。いやな冷笑を浮かべながらお師匠様が三たび、登場してきた。
 「だがな、問題はその信長の信頼や“家臣愛”が相手に通じていたかどうか、だ」(編集委員 関厚夫)
 ※1 中央公論社『世界の名著21 マキアヴェリ』
 ※2、3 筑摩書房『マキァヴェッリ全集3』 一部編集

*2017.07.16 産経新聞より
(http://www.sankei.com/life/news/170716/lif1707160012-n1.html)

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