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zoom RSS 【マキャベリ流−是非に及ばず】(29)

<<   作成日時 : 2017/12/03 22:37   >>

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 日本史に関する記事では定評のある産経新聞、今回は数々の著作もある論説委員の関厚夫さんが、マキャベリをとおして日本史を語ります。必見です。

NOBUNAGA(29)賢者には自由に真実を語らせよ。しかし、増長は許すな

 〈天正10(1582)年正月七日朝 惟任日向守(これとう・ひゅうがのかみ)(明智光秀)殿御会
 山上宗二(やまのうえ・そうじ)、津田宗及(そうぎゅう)出席
 一、床(の間)に上様(織田信長)御直筆の御書かける
 一、炉に八角の釜
 一、床(の間)に八重桜の大壺(以下略)〉
 (『津田宗及茶湯(ちゃのゆ)日記』)
 茶人であり、堺の豪商でもあった宗及は光秀主催の茶会をそう記録している。
 「八角の釜」は4年前、信長から拝領された名物と同じものだろう。床の間に信長直筆の書をかかげ、拝領の釜で湯をわかし、秘蔵の名物・八重桜の茶壺(ちゃつぼ)を信長の書にかしずかせるように配置する−。光秀が信長を急襲し、憤死にいたらしめる絶後の下克上「本能寺の変」が起きるのはこれから5カ月後のことだ。
 「この茶会の時点では光秀はいまだ信長になみなみならぬ敬意をもっており、『本能寺の変』は頭になかった」。そんな見方もあるようだが、どんなものだろうか。
 《ある人が前もって「おれはこれこれの悪だくみを実行しようと思っているのだ」と公言するがごときは、まことに愚も愚、不用意きわまる言動だということは、だれの目からみても明らかであろう。

 というのは、人はけっして自分の心の奥底をさらけだしてはならないのであって、ありとあらゆる手段に訴えても自分の目的をかなえるように努力しなければならないものだからである》(※1)
 お師匠(マキャベリ)様(さん)の『政略論』の一節だ。光秀が示した信長への過剰なまでの礼賛に、底意を隠すためのあざとさをみることもできるだろうし、後の暴発を秘めた、屈折した自己卑下を読み取ることも可能ではないだろうか。
 本能寺の変や続く安土城天主の炎上は、茶の湯史にとっても一大事件だった。「三日月」や「松嶋」といった天下無双の茶壺をはじめ、信長が集めてきた逸品の茶器が次々に焼失してしまったからだ。
 《信長は、おそらく、西国出馬(中国地方の毛利氏に対する軍事行動)に際し、京都の本能寺で名物披(ひら)きの茶会を盛大に催し、数寄(すき)大名としての面目を天下に誇示したかったのであろう》(『戦国武将と茶の湯』)。安土桃山時代史・茶道史研究の大家、桑田忠親氏はそう推測している。
 光秀は「中国大返し」を敢行した豊臣秀吉との戦いで敗死、今度は「八重桜」が灰燼(かいじん)に帰す。その5年前には信長に反旗を翻した松永久秀(弾正)が平蜘蛛(ひらぐも)の茶釜を道連れに滅亡している。戦国時代、名物茶器は常に逸失の危機にさらされていた。

 さて「信長暗殺」によって2つの大事業が頓挫の瀬戸際に立った。まず天下の統一。そして信長が保護し、かつ彼独自の審美眼が開花しつつあったという茶の湯文化の継承である。もちろん、前者は豊臣秀吉によって、後者は千利休と秀吉の二人三脚によって大成されることになる。
 「それで、だ。なぜ秀吉と利休のコンビがにわかに決裂し、秀吉が利休に死を科すことになったと思うかね」
 お師匠様からこんなお題が出された。
 表向きの理由とされるのは、秀吉をはじめ貴人がその下を通る京都・大徳寺の山門楼上に雪踏(せった)ばきの自らの木像をまつるという「不遜僭上(ふそんせんじょう)」の振る舞いと「新儀の道具を高値で売る売僧(まいす)の頂上」という批判である。秀吉が利休の娘に横恋慕したのが発端、との説もある。しかしながら、お師匠様がこんな答えで満足するわけはない。
 《人を非難することにはいたって熱心で、人をほめることとなるときわめて熱意のないのが、人間の嫉妬心というものである。そのため、新しい学問の方法や体系を発見したり、導入したりすることは、未知の大海や大陸を探険するのと同じように危険なこととなっている》(※2)

 お師匠様の『政略論』の「はしがき」の一節である。「学問の方法や体系」の部分を、「文化やその価値観」に置き換えれば、利休の場合にもあてはまることになろう。
 利休の失脚についてはよく石田三成の陰謀が取り沙汰されるが、利休に嫉妬を覚えていたのは一人や二人ではなかった。小瀬甫庵(おぜほあん)は『太閤記』で〈洛中(京都)の茶人は名声もあり、秀吉公の覚えもめでたかったが、機会があれば堺の茶人どもに一発「がん」とくらわせて常々の名人顔を汚さんと画策する者もいた〉としている。
 また当時、茶器はバブル期にあった。利休の高弟、山上宗二によると、侘(わ)び茶の祖、村田珠光(じゅこう)(1423〜1502年)が生前、100貫の値をつけた名物の茄子(なす)(ナス形の茶入れ)はこのころ、50倍の5千貫(米換算で約8250石)で取引されていた。
 そんななか、利休は大名や有力者からひんぱんに茶器の目ききを依頼され、独自の鑑定眼で「珠光由来」の名物さえ否定した。宗二によると、「珠光鍋釜」に対する利休の評価は「今の世にはいかがなものか」だった。
 利休は価値の創造者であり破壊者でもあった。茶の湯のたしなみのない者からすれば彼は魔法使いにも錬金術師にもみえたことだろう。利休の権威と権力を嫉妬する者はそれを逆手に取って−。
 「隔靴掻痒(かっかそうよう)だな。何だその不満そうな顔は? お前の話には肝心の利休と秀吉との間にある機微が語られていないからそう言うんだよ」
 お師匠様の講評である。「痛!」である。

 「おれさまの『君主論』にはこうある。『君主がへつらいから身を守る手段は、真実を告げられても、けっして怒るものではないことを人々にわからせる以外にない。ところが、そこでだれもかれも真実を話してもいいということになると、君主への尊敬の念は失われてしまう。だから、思慮の深い君主のとるべき道は、国内から賢人たちを選びだして、彼らだけに真実を語る自由を認めることであり、しかも、それは下問する問題だけにかぎり、ほかのことは許さないようにすることだ』(※3)とな。一つに利休はこの規矩(レッドライン)を踏み外したんだろうな」(編集委員 関厚夫)
 ※1〜3 中央公論社『世界の名著21 マキアヴェリ』 1、3は一部編集

*2017.06.25 産経新聞より
(http://www.sankei.com/life/news/170625/lif1706250039-n1.html)

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