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zoom RSS 【マキャベリ流−是非に及ばず】(27)

<<   作成日時 : 2017/08/04 22:17   >>

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 日本史に関する記事では定評のある産経新聞、今回は数々の著作もある論説委員の関厚夫さんが、マキャベリをとおして日本史を語ります。必見です。

NOBUNAGA(27)情報を入手する最善の方法は、情報を与えることである

 〈十月二十八日、織田信長様は京都と堺の名だたる風流人十七人を召し寄せられ、京の妙覚寺で茶の湯の会を主催された。(中略)茶事をつかさどる茶頭(さどう)は堺の宗易(そうえき)(千利休(せんのりきゅう))がつとめた〉
 『信長公記』の天正3(1575)の記述である。このとき、信長は数えで42歳。利休は54歳とされる。
 同じ年の5月(旧暦)、信長は長篠の戦いで武田勝頼を撃破。9月までに一向衆の牙城となっていた越前国を平定し、この茶会の1週間前には石山本願寺との講和が成立していた。翌年、再び本願寺や中国地方の覇者・毛利氏を中心とした「反信長連合」との長期戦に突入するのだが、茶会を主催したころ、信長は「絶頂」とまではゆかなくとも、得意にあった。しかし彼は、浮かれることなく着々と天下取りへの布石を打つ。
 茶会の1カ月後、信長は嫡子の信忠に家督を譲り、《御茶の湯道具ばかり》を携えて岐阜城から重臣、佐久間信盛邸に引っ越す。信長が隠居?
 とんでもない。翌年早々、安土城の建設を命じ、2月には工事中の同城に居を移す。この「代替わり」は、尾張・美濃といった旧領国は息子に任せ、自身は天下取りに専念することを意味していた。
 さて信長と利休の関係である。茶頭に選ぶくらいだから信長はもちろん、利休を茶人として高く評価していたわけだが、それとともに、利休の外交・政治能力と商才を早くから買っていた。
 〈上様へのご進物の件ですが、ご祝儀を送るのがもっともよいかと思われます〉
 利休が摂津国の自治都市・平野の有力豪商にあてた書状の一文だ。利休は信長−羽柴秀吉ラインの名代役として仲介と調整につとめていたのだが、驚いたことにこのとき、彼は信長の朱印状草稿や禁制の地図などの内部情報を秘かにこの豪商に伝えている。
 〈山を谷、西を東とみなすがごとく、茶の湯のさだめを破り、自由に解き放った〉とは利休の高弟、山上宗二(やまのうえ・そうじ)の師匠評なのだが、茶の湯ばかりでなく政治の世界でも大胆というか、「自由」に振る舞いすぎてはいないだろうか−。
 「あーあ、やだやだ。これだから、頭の固い奴(やつ)はいやになっちゃうんだよ」
 お師匠(マキャベリ)様(さん)だ。それにしても毎回、よく弟子の悪口を考えつくものだ。これも才能といえば一種の才能だろうが…。
 「おれさまが弟分、ラファエロ・ジローラミの野郎に書いてやった“外交官としての留意点”を読んだか? 『誰かに掴(つか)んでいることを教えてもらいたいなら、まず自分が知っていることを教えることだ。情報を入手する最善の方法は、情報を与えることだ』(※1)とあるだろう。利休は見事、外交官としての手管を発揮していたということさ。ちなみにジローラミはおれさまの薫陶あって再興フィレンツェ共和国の執政長官(ゴンファロニエーレ)に抜擢(ばってき)された(1530年)が、四面楚歌(そか)の共和国はまもなく降伏。『罪は不問』のはずが逮捕・拷問だとさ。兄貴分に似て、不憫(ふびん)な奴だぜ」
 すっかりお師匠様に腰を折られてしまった。ぜひここで今回のテーマである「利休の別の顔」に話を戻したい。
 〈越前の出馬に際して鉄砲の弾丸千発到来。はるばるの懇志、喜び入り候〉
 天正3年9月、信長が利休に贈った感謝状にはこうつづられている。武器商人としての利休の一面を伝えるとともに、天正3年10月の茶会における茶頭抜擢は利休に対する「論功行賞」の意味もあったことをうかがわせる。
 堺は当時、商都として鉄砲(火縄銃)の一大集散地であると同時に有数の鉄砲鍛冶の町−生産地でもあった。だから実家は納屋衆(海浜の倉庫貸し業)とも魚問屋だったとも伝えられる利休でも、“専門外”の弾丸を調達することができたのだろう。
画像
鉄砲鍛冶の町・堺ゆかりの大火縄銃(手前)と火縄銃の数々=堺市博物館(関厚夫撮影)

 それにしても不思議である。これらの鉄砲を使えば、独立はおろか信長に代わって堺が、天下統一を実現できたはずではないか…。

 「まあ『灯台もと暗し』とでもいうべきかな。おれさまの親友、グイッチャルディーニはこう書いている。『一四九四年以前は戦争は長びき、都市を攻略するにも緩慢で成果はあがらず、使用される大砲の技術は未熟だった。ところがフランス軍がイタリアに侵入して砲術による戦争のやり方に厳しさをもちこんだため、一五二一年には会戦で敗れることは、そのまま国家を失うことになった。つまり一四九四年当時では、人々の攻撃のやり方がなっていなかったために国家が安泰だったのである』(※2)とな」

お師匠様の解説である。
 「おそらく堺の奴らは、一つ一つの鉄砲の性能については知っていても本当の威力−それが戦争で集団的に、かつ効率的に用いられたときの破壊力というものを想像できなかったんだろう。そのことを最も知っていたのが信長であり、その証拠が長篠の合戦だったということさ」
 おや? と思った。
 まるで人ごとのように話しているが、お師匠様の『政略論』(1517年完成)には《人人は、大砲のもたらす被害からのがれる手段を簡単に編みだす》(※3)とある。お師匠様びいきではだれにも譲らない作家、リドルフィも〈マキァヴェッリは火器の恐ろしい未来を予見できなかった〉と書いている。記者としての職業意識に駆られ、お師匠様の「ブーメランぶり」をほのめかしたところ…。
 「このピンぼけ野郎! お前ぐらい師匠(マエストロ)の揚げ足を取ろうと手ぐすねをひいている不肖の弟子はいないんじゃないか? おれさまが『政略論』の4年後に刊行した『戦争の技術』を読んでみろ。ちゃんと前言を修正し、『砲撃による被害たるや、甚大きわまりないものだ。したがって過去の戦法は、わきにおしやらなければならない』(※4)と書いてあるだろうが!」(編集委員 関厚夫)
 ※1 筑摩書房『マキァヴェッリ全集6』
 ※2 講談社学術文庫『フィレンツェ名門貴族の処世術』 一部編集
 ※3 中央公論社『世界の名著21 マキアヴェリ』
 ※4 筑摩書房『マキァヴェッリ全集1』 一部編集

*2017.06.11 産経新聞より

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コメント(1件)

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国友村の生産力もすごかったみたいよ。鉄砲1丁が馬1頭分ではないかな。
井出浩司
2017/08/05 18:54

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