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zoom RSS 【マキャベリ流−是非に及ばず】(26)

<<   作成日時 : 2017/07/22 16:53   >>

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 日本史に関する記事では定評のある産経新聞、今回は数々の著作もある論説委員の関厚夫さんが、マキャベリをとおして日本史を語ります。必見です。

NOBUNAGA(26)茶の湯をたしなめ。権力誇示と部下統率のために

 よく考えればおかしい。考えれば考えるほどおかしい。
 なぜ、大阪生まれのおれさま−もとい筆者が、お師匠(マキャベリ)様(さん)とはいえ、ルネサンス後期のイタリア人に「堺の茶の湯を勉強せよ」などという指令を受けなければならないのだ?
 だいたい、そう思っているにもかかわらず、なぜいそいそと東京国立博物館の「茶の湯」展や東京国立近代美術館の「茶碗(ちゃわん)の中の宇宙」展に足を運ぶ?(注・前者は本日が最終日、後者の会期はすでに終了している)
 「お前にはプライドというものがないのか」と自責の声がする。「そんなことを言っている場合か」。そう答え、むりにも納得しようとする。
 心の葛藤に目が曇っているせいだろうか。「国宝」や「重文」の数々、また世界でも希少な茶碗「曜変天目(ようへんてんもく)」を目の当たりにしても、その名前や“肩書”ほど、展示物そのものには感動したり驚いたりしない自分が情けない。
 しかし、この一品だけは違った。桃山時代を代表する画家、長谷川等伯(とうはく)が数えで62歳の「茶聖」を描いたと伝えられる「千利休像(図)」だ。
 それにしてもこの座像の人物の尋常でない眼光の鋭さ、そして到底一筋縄ではゆきそうにない面構えはどうだ。そもそもここに活写されているのは芸術家なのだろうか。

 いや待て。同じような印象をどこかで受けたことがある。そうだ、5世紀前に描かれ、今もその菩提寺(ぼだいじ)に伝わる「蝮(まむし)」と呼ばれた美濃国(岐阜県)の戦国大名、斎藤道三の肖像画だ…。
 道三といえば、織田信長の岳父である。信長は茶の湯を政治に活用したことで知られるが、鈴木秀雄氏の論文「忘れられている美濃戦国文化−斎藤道三の風雅」(※1)によると、道三はこの点でも信長の“父”ともいうべき先駆であった。道三は「新興大名の文化的優越と権力誇示という政治的必要から」、茶の湯文化を利用し、「この道三の統治、支配理念は信長の安土城、秀吉の大坂城に発展してゆく」ことになる。
 その論拠の一つが江戸時代・元禄年間に発行された『古今茶道全書』に収載されている「斎藤道三入道露地数寄屋之図(にゅうどうろじすきやのず)」。道三は16世紀半ば、本拠を置いた稲葉山城(後の岐阜城)の麓に、桜一色の山々を外庭にあしらい、別に内庭や数寄屋(茶室)を配した風雅ながら壮大な空間を建設し、その富と権力、そして「美濃文化」の象徴としていたというのだ。

 そんな道三は茶人、不住庵梅雪(ふじゅうあんばいせつ)を何度も美濃へ招いた。梅雪は「茶の湯・佗(わ)び茶の祖」とされる村田珠光(じゅこう)(1423〜1502年)直系の弟子であり、茶道をもって室町幕府第13代将軍、足利義輝の側近として仕えたとされる。
 鈴木氏の「道三の風雅」によると、現代では「珠光−武野紹鴎(じょうおう)(佗びの境地を確立した名人とされる)−千利休」という“堺・草庵茶”の系譜が茶道の本流とされているが、戦国末期までは「珠光−村田宗珠(そうしゅ)(珠光の養嗣子)−梅雪」の“京都・書院風茶”の系譜が本流。草庵派は新興茶道であったという。
 この梅雪はのちに信長の茶頭(さどう)にも抜擢(ばってき)される。が、次第に利休をはじめ堺・草庵派が台頭し、没落する。
 信長と茶の湯。『信長公記』には永禄12(1569)年と元亀元(1570)年、天正2(1574)、5年の各巻にそれぞれ「(御)名物召し置かるるの事」という章がある。天正2年分がごっそり欠けているのは惜しいところだが、茶器を中心に数々の「名物」を「召し」上げ、その代償に金銀を与えたことなどが記されている。
 このほか、臣従のしるしとして献上された逸品も多く、『織豊期の茶会と政治』(竹本千鶴氏著、思文閣出版)によると、信長が収集した名物茶器は235点にのぼる。
 なかでも信長が愛したのが「松嶋」と「三日月」の茶壺で、『信長公記』にある天正3年と同6年に信長が主催した茶会では、ともにこの2つの茶壺が“主役”として披露されている。
画像
堺旧港の夕景。手前は呂宋(納屋)助左衛門像。正面右にライトアップされているのは龍女神像=堺市(関厚夫撮影)

 ちなみに「松嶋」「三日月」ともに呂宋(ルソン)壺とされる。後年、納屋(呂宋)助左衛門が豊臣秀吉に50もの呂宋壺の名物を進上した話がよく知られているが、すでに室町時代から輸入されていた。もっとも、フィリピン・ルソンを経由して輸入されたため、この名がつけられたが、原産地は中国・広東や安南(ベトナム)あたりらしい。
 さて信長は、集めた茶器の名物を秘蔵するのではなく、折をみて嫡子の信忠、秀吉や明智光秀らの有力家臣に下賜(かし)していった。なぜか。
 『織豊期の茶会と政治』によると、信長によって名物茶器の拝観を許されることが第1段階とすると、その下賜は第2段階。第3段階はその茶器を使った茶会主催を許可されること。段階が上がるほど信長の覚えがめでたいというわけで、そうすることによって、彼を頂点とした「ヒエラルヒー」(ピラミッド型の組織)の序列を示し、家臣団を統率していったのだという。

 「さすがだね、信長は。おれさまは『政略論』に『君主が親しい者に多くの権威を授けてやるばあい、その男と君主みずからの地位のあいだに、一定の間隔をおくようにしなければならない。そして両者の中間になにかを置いて、その男がほしければとれるようにしておかなければならない』(※2)と書いたが、信長にとっては茶器と茶の湯がその『なにか』だったわけだ。やるもんだね」
 今回は出番が最後で少なかったからだろうか、信長をほめているようでその目は険しい。「それにしてもどこかで見たような面構えだな」などと考えていると…。
 「おい、ところでいつになったら利休の話になるんだ! 何のために“前振り”で利休を登場させたんだ! 早くおれに利休を語らせろ!」(編集委員 関厚夫)
 ※1 岩田書院『論集戦国大名と国衆16美濃斎藤氏』所収
 ※2 中央公論社『世界の名著21 マキアヴェリ』


*2017.06.04 産経新聞より
(http://www.sankei.com/life/news/170604/lif1706040012-n1.html)

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内 容 ニックネーム/日時
「お茶」とか「生け花」とか全くわからないです。
井出浩司
2017/07/22 20:34

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