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zoom RSS 【マキャベリ流−是非に及ばず】(19)

<<   作成日時 : 2017/06/02 23:27   >>

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 日本史に関する記事では定評のある産経新聞、今回は数々の著作もある論説委員の関厚夫さんが、マキャベリをとおして日本史を語ります。必見です。

NOBUNAGA(19)人間は恐れる者より、愛情を感じた者を容赦なく傷つける

 弘治2(1556)年4月20日(旧暦)、織田信長の岳父(舅(しゅうと))にあたる斎藤道三は「長良川の戦い」で、その長男、義龍の大軍を迎え撃ったが一敗地にまみれた。そしてかつての家臣たちに首をうたれ、鼻をそがれる。
 『信長公記』の作者、太田牛一は、骨肉の戦いへの種を自らまいた観のある老年期の道三について、「智慧(ちえ)の鏡も曇り」と評した。またお師匠(マキャベリ)様(さん)は『政略論』でこうのたもうている。
 《人の運不運は時代に合わせて行動を吟味するか否かにかかっている。ある者は感情の激するままに事を運び、ある者は用心に用心を重ねて事を進めていく。どちらのばあいでも、限界を踏み越えやすく、適切な方法を守りとおしえず失敗に終わる》(※1)
 諸史料を総合すると、義龍が反旗のクーデターを決行したのは長良川合戦の5カ月前。道三ともあろうものが「感情の激するまま」というか、「情に溺れた」というのか…。彼が義龍よりも2人の弟の方をかわいがるようになったばかりか、義龍に譲ったはずの家督を取り上げ、弟に与えるような動きを見せたことが離反の原因だった。義龍はこの2人の弟をだまし討ちし、稲葉山城(後の岐阜城)を占拠する。

 国を二分する内乱となったが、次第に道三側が少数となっていった。まずは稲葉山城には家臣の人質が多くとどめられており、自然と義龍に味方する者が多かったこと。またもともと、一連の政変については道三政権を「不可」とする家臣団多数派が義龍をいただいて起こしたものだった−とする説もある。
 実は義龍は道三が追放した美濃国前守護、土岐頼芸(よりなり)の実子であり、それを家臣から告げられたことがクーデターの引き金になった−。そんな説が旧来、幅をきかせてきた。
 しかし、『岐阜市史 通史編 原始・古代・中世』のなかで、勝俣鎮夫氏は《この説は江戸時代の強い因果応報・勧善懲悪思想によって創りだされた説であって、戦国大名の家督をめぐる争いは、どこでも骨肉あい食(は)む争いになるのがむしろ一般であったのである》と解説している。
 また、義龍は後に斎藤姓を捨てるのだが、「土岐」ではなく、別の名家「一色」を名乗った。そればかりか、実父であれば丁重に迎え入れられるべき亡命中の頼芸が美濃に帰ることはついになかった。こうしたことからも、「頼芸−義龍父子説」は創作の疑いが強いといえる。
 お師匠様は『君主論』にこんなことを書いている。
 《人間は恐れている者より愛情を感じていた者を容赦なく傷つける。人は元来邪悪であり、恩義の絆でつながれている愛情などは自分の利害がからむ機会が起きれば、すぐに断ち切ってしまうからだ。だが、恐れている者に対しては、処刑の恐怖でしっかりと縛られているので、けっして見殺しにしない》(※2)
 『信長公記』によると、道三は、軽微な罪の者を牛裂きの刑にしたり、その妻や親兄弟に火をたかせておいたうえで釜ゆでの刑にしたりしたという。義龍や家臣にもまた、「処刑の恐怖」はまちがいなく心の奥底にまで植えつけられていただろう。にもかかわらず、反旗を翻した…。
 「まだまだ読み込みが甘いな、お前は!」
 お師匠様だ。
 日本の戦国期を生きた分身、道三への弔意だろうか。きょうのお師匠様は語気の割には表情は神妙である。
 「おれさまは『政略論』にこうも書いている。『君主たるものは部下をおびやかすような態度を一切つつしみ、部下を愛撫(あいぶ)し安心立命の境地に置いてやらなければならない。君主を殺してしまわなければ、自分が殺されると思いつめるような土壇場に、部下を追いこむことは、きびしくつつしまなければならない』(※3)とな。道三の野郎が誤ったのはここだろうな」
 ここでお師匠様はようやく件(くだん)の冷笑を取り戻した。
 「まあこれはその後の信長にも言えることかもしれないがね。あの野郎も、光秀をはじめとしてずいぶんと部下から裏切られたり、命を狙われたりしているからな…」
 江戸時代初期の成立とされる『美濃国諸旧記』によると信長に嫁いだ道三の娘、濃姫と明智光秀はいとこ同士。濃姫の母(道三の正室)、小見の方が父方の叔母にあたるからだ。また、光秀の砲術の師は道三で、『明智系図』によれば、道三は幼少の光秀をみたさい「万人の将となるべき人相だ」と評したという。
 だが、これらの記述についてはどこまで信用してよいのか…。たとえば『織田信長家臣人名辞典』(谷口克広氏著)は光秀について、《土岐氏の庶流であることは確か》だが、《たとえ名門であるにしても没落した身の上》とし、道三との関係については記していない。また『明智光秀 史料で読む戦国史』(藤田達生・福島克彦両氏編)も《美濃の土岐氏一門明智氏の出身》だが、《謎に包まれた人物》でもあり、《出自については、関係系図が何本かあるが、いずれも信用しづらいものであり、父母すら確定できない》としている。
 道三と光秀の縁(えにし)は心もとなくなってきたが、道三と信長の間には確かな絆−少なくとも道三の方には“父”に近い感情があったようだ。
画像
>織田信長と斎藤道三が会見したと伝えられる聖徳寺跡で=愛知県一宮市(関厚夫撮影)

 『江濃記(ごうのうき)』によると、道三は討ち死にする前日、幼い末子にあてて、肌身離さなかった守り本尊とともに、仏門に入り、九族(一門)生天に資することを勧めると同時に「美濃のことは信長の思うがままに任すように。信長には国譲りの書状を渡してある」とつづった遺書を送った。

 「道三は信長への情にも溺れたんでしょうか」
 お師匠様に聞くと、こんな答えが返ってきた。
 「わが『政略論』にいわく『人間は完全な善、あるいは完全な悪に徹底してなりきってしまうことはできない。そのためにたいへんな危険に引きずりこまれる』(※4)。悲しいかな、道三もやはり、人間だったということさ」(編集委員 関厚夫)
 ※1〜4 中央公論社『世界の名著21 マキアヴェリ』 いずれも一部編集


*2017.04.16 産経新聞より
(http://www.sankei.com/life/news/170416/lif1704160005-n1.html)

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
信長協奏曲映画版、昨日借りてきて、半分見た。
井出浩司
2017/06/03 12:48
ラストはちょっとJIN−仁っぽい。
管理人  
2017/06/03 22:56

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