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zoom RSS 【マキャベリ流−是非に及ばず】(18)

<<   作成日時 : 2017/05/22 21:20   >>

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 日本史に関する記事では定評のある産経新聞、今回は数々の著作もある論説委員の関厚夫さんが、マキャベリをとおして日本史を語ります。必見です。

NOBUNAGA(18) 理想論に走り、人が生きている実態を見落とす者は自滅する

 『信長公記』によれば、「大うつ気(け)」「大だわけ」ともっぱらの評判だった若き日の織田信長に、尋常ならざる器量(お師匠(マキャベリ)様(さん)流に言うならば力量(ヴィルトゥ))を認めた同時代人は3人…。
 (−というような書き出しでは、お師匠様から「知っている奴(やつ)はよく知っているような話をもったいぶって書くなと前にも言っただろうが!」と大目玉をくらうことは必定である。しかし、こう始めないことには、今回は話が続かないのだ。読者の方々はご堪忍、お師匠様にあられてはお怒りをひとまずおさめたうえで、お読みいただきたい)
 さてはまず、それでも信長を跡取りとした父、信秀。次に、その信秀の葬儀のさい、だれもが眉をひそめた信長の振る舞いを見て「あれこそ国は持つ人よ」と断言した九州からの旅僧。そして岳父(舅(しゅうと))である美濃(岐阜県)の覇者・斎藤道三である。
画像
斎藤道三像(東京大学史料編纂所所蔵の模写

 もともと道三は、「信長はたわけなどではない」と周囲に語っていた。また初対面が実現したさい、父、信秀はすでに亡く、数えで20歳になっていた信長が、道中の野武士くずれのような格好から一転、一分のすきなく正装して会見の場に臨んだこと、また後に道三が「あれをたわけと言うならば、残念だがわが子供は、そのたわけの軍門に降るだろうよ」と述べたという話はよく知られている。
 京都・妙覚寺に預けられた神童が寺を出奔して油商人になったかと思うや今度は侍の世界に飛び込み、権謀術策の限りを尽くして美濃を奪取する−。そう伝えられる道三は戦国時代における下克上を体現した人物とされてきた。

 《その国が強大になって、独立自尊の地歩を確立できるようになるまでは術策を弄することもやむをえない。ローマも大をなすためには、策謀をめぐらすことをためらうようなことはなかった。このような策略こそ、低いところから身を起こして最絶頂へとのしあがっていこうとする者にとっては、つねに欠かすことのできないものである》

 お師匠様の『政略論』(※1)にはそう書かれている。まさに道三について、との観がある。ところが、道三の一代記として語られてきたのは実は、父子2代にわたる物語であり、弁舌と武勇をもって美濃守護家の土岐氏の重臣にとりたてられるまでの前半部は道三の父、長井新左衛門尉(しんざえもんのじょう)の生涯。「2代目」となる道三自身の話は以降の後半部なのだという。

 成立年代・作者ともに不明ながら『江濃記(ごうのうき)』は新左衛門尉(同書では豊後守)と道三による「二代記」として美濃の「国盗り」を伝えていた。しかし、江戸時代初期の成立とされる『美濃国諸旧記』や信長研究の第一史料『信長公記』などには道三の「一代記」としてつづられており、『江濃記』が顧みられることはほとんどなかった。
 潮目が変わったのは昭和48(1973)年。南近江の戦国大名、六角承禎(じょうてい)(義賢(よしかた)、1521〜98年)が道三の敗死から4年後にあたる永禄3(1560)年にしたためた条書(写(うつし))が公開された。それによると、新左衛門尉は「京都妙覚寺法花(華)坊主落(おち)」でもともと「西村」と名乗っていたが、当時の主人だった「長井」の姓を名乗るようになり、その子、道三に至って「代々の惣領(そうりょう)を討殺、諸職を奪い、美濃の名族の斎藤姓を冠するほど成り上がった」のだという。
 当時、六角氏のもとには元美濃守護の土岐頼芸(よりなり)が身を寄せていた。頼芸は道三のために国を追われており、旧臣の道三や新左衛門尉の素性に精通している。承禎はこの頼芸からの情報をもとに記述したことは確実で、おなじみの「(道三)一代記」は残念ながら現在は否定されている。
 かくして美濃における「国盗り物語」は見直しが必要となった。さてさて、才覚にまかせて鮮やかに出世してゆく「前半部」がその父のものだとすると、「後半部」は、道三という救いようのない悪漢の一代記となる。
 というのも、道三は信長の父、信秀軍をさんざんに打ち破るなど無類の戦上手ではあるが、「承禎条書」に手厳しく書かれているように、守護家を追放したり、恩人や主家の子孫を殺害したりするなど、謀殺・謀略に明け暮れたあげく、反旗を翻した嫡子、義龍に攻め滅ぼされるという末路をたどるからだ。
 「まずは道三って野郎の弁護から始めるとするか」
 例によって急に話に割って入ったお師匠様だが、今回は何だかえらく上機嫌である。
 「奴が生きていたのは、おれさまが『君主論』で喝破した『人の実際の生き方と人間いかに生きるべきかということとは、はなはだかけ離れている。だから、人間いかに生きるべきかということのために、現に人の生きている実態を見落としてしまうような者はあっというまに、よからぬ多くの人の間にあって破滅を思い知らされる』(※2)という一節の見本といえる戦国時代じゃないか。現代人の感覚からすると少々逸脱しているからって、そうあしざまに言うもんじゃないだろう」

 (歴史の悪役を語るとき、お師匠様は顔がほころび、いつにもまして饒舌(じょうぜつ)になる。こんなことは口が裂けても言えないが、親近感がわくあまり、ついついそうなってしまうのだろうな…)
 幸いにも、そんな筆者のひそかな思いを察することなくお師匠様の雄弁は続いた。
 「やはり『君主論』でおれさまは書いているだろう。言語が共通する地方を支配するさいには『昔からの君主の血統を根絶し、法律や税制に手をつけさえしなければ成功する』(※3)と。道三はそのお手本だが一方でそれが限界であり、信長との差なのだろうな。土岐氏を“根絶やし”にはしたものの、道三時代は『他の戦国大名がつぎつぎにうちだしている民政の新しい施策に匹敵するものは、現在のところ、その片鱗(へんりん)すらうかがえない』(※4)とまで言われているそうじゃないか」(編集委員 関厚夫)
 ※1〜3 中央公論社『世界の名著21 マキアヴェリ』 いずれも一部編集
 ※4 『岐阜市史 通史編 原始・古代・中世』


*2017.04.09 産経新聞より
(http://www.sankei.com/life/news/170409/lif1704090012-n1.html)

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内 容 ニックネーム/日時
「お前は気軽でいいよな」とイソ*氏によくいわれてたよね。就職してからも、「俺なんか、現金商売だから1円あわないだけで大変だよ。おまえはいいなあ」と言われていました。信長の気持ちがわかります。イソ*のちんまっこい尺度でしか評価ってできないと思います。
井出浩司
2017/05/23 08:08

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