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zoom RSS 【マキャベリ流−是非に及ばず】(17)

<<   作成日時 : 2017/05/16 13:59   >>

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 日本史に関する記事では定評のある産経新聞、今回は数々の著作もある論説委員の関厚夫さんが、マキャベリをとおして日本史を語ります。必見です。

NOBUNAGA(17)運命は、従う者を導き、逆らう者をひきずってゆく

 1503年8月18日、ときのローマ教皇(法王)、アレクサンデル6世が急逝した。
 72歳とされる。お師匠(マキャベリ)様(さん)の親友、グイッチャルディーニが伝えるところによると、その遺体は《黒く膨れあがって見るも恐ろしく、醜悪》だった。また同時に息子のチェーザレ・ボルジアも瀕死(ひんし)に陥っていたため、一報は驚きをもって受け止められ、さまざまな臆測を呼んだ。
 このボルジア家の悲劇について当時、チェーザレがある要人を殺害するために用意していた毒ワインを誤って父子で飲んだ−とのもっぱらの噂だった。現在ではそれを含めた毒殺説やマラリア説が挙げられているが、真相はいまだ闇に包まれている。
 《栄光に満ちたアレクサンデルの魂は休息のため福者たちの間へと運ばれて行った。 その聖なる歩みには、彼に親しく愛された侍女として三人の聖女が付き従っていた。彼女らの名は「情欲」、「聖職売買」、それに「残虐」である》(※1)
 この辛辣(しんらつ)さ。お師匠様の面目躍如と言うべきだろう。教皇の死の翌年に書かれた詩『イタリア十年史 その一』の一節だ。一方、一命をとりとめたチェーザレについてお師匠様は、教皇の死後、四面楚歌(そか)となり、かつての仇敵(きゅうてき)によすがを求めるさまを同じ詩のなかで《公(チェーザレのこと)は、彼自身決して抱いたことのない慈悲の心というものを、他人は自分に対して抱いてくれるのだと思い込んだらしい》と嘲笑している。

 「明らかに公は自分の諸々の罪を悔い改めざるを得なくなっております」「かくしてこの公は徐々に墓に足を踏み入れております」(※2)
 これらは、外交官としてローマに特派されていたお師匠様が、1503年の11月下旬から12月初旬にかけて故郷のフィレンツェ政府にあてた報告書にある記述だ。辛辣かつ冷静なこの分析の通り、5年前、彗星(すいせい)のごとくイタリア・ルネサンス史に登場した君主(プリンス)チェーザレ・ボルジアは没落の一途をたどる。
 前回、お師匠様は「父がいなくなったときに何ができたか。それが織田信長とチェーザレの決定的な差だ」といった意味のことを言っていた。
 信長の父、信秀は『信長公記』によると「疫癘(えきれい)(悪性の流行病)」のため3月3日、42歳(数え)で逝去−と記されているが、その没年については天文18(1549)、20、21年説がある。
 信長は当時、数えで16〜19歳。国内外の僧300人を集めて大々的な葬儀が営まれたさいの信長の様子を、『信長公記』はこう記している。
 〈信長公がご焼香にこられた。その時の服装は長柄(ながつか)の大刀と脇差をわら縄にて巻き、頭は髷(まげ)を作らない茶筅髪(ちゃせんがみ)、袴(はかま)もおはきにならないで仏前へお出でになるや、抹香(まっこう)を「くわつ」と掴まれて仏前へ投げつけ、お帰りになられた〉
 一方、弟の信勝は服装、作法とも非の打ちどころがなかった。信長の振る舞いに「件(くだん)の大うつけよ」とみな思い思いに悪口を言い合ったが、九州から来ていた僧が一人、「あれこそ国取り人となるお方だ」と評したという。
 信長は織田家の家督を継いだものの、《天文十九年から二十一年にかけては「尾州錯乱」「飢餓乱世」(『定光寺年代記』、本願寺証如の『天文日記』)という危機的状況が現出》(※3)していた。
 四面楚歌である。しかし信長は、数々の内乱や信勝との骨肉の争い、さらには当時の東東海(ひがしとうかい)の覇者、今川義元との桶狭間合戦を制して戦国史の主役に躍り出た。また以降も足利義昭−武田信玄ラインをはじめ、常に強敵に囲まれつつそれを突破してきた。
画像
国指定史跡・桶狭間古戦場伝説地の真向かいにまします弘法大師像=愛知県豊明市(関厚夫撮影)

 父を失い、尾張半国の維持さえ危ぶまれた10代の後半から信長は、「頼むは自分の才覚のみ」という状況にありながら、30年間にわたって一路天下人への道を駆けていたのだ。確かにお師匠様に一理ある。そう思ったところが…。
 《それにしても、ヴァレンティーノ公(チェーザレ)は、すばらしい勇猛心と力量(ヴィルトゥ)の人であった。(中略)あれほど短期間であったが、築いた土台はきわめて堅固であった。(中略)もしアレクサンデルの臨終に当たって、彼の健康さえ申し分なければ、なにもかも支障なく運んだはずであった》《彼のすべての行動を回顧してみると、私は彼を非難することはできない。それどころか、(中略)運(フォルトゥナ)や他人の武力で政権にのぼったすべての君主にとって、ぜひ模倣すべき人物として彼を推したいと思う》(※4)
 いずれも、前出の「イタリア十年史」から約10年後に書かれた『君主論』の一節だ。仰天−である。チェーザレへの評価が百八十度ちがうではないか。これはいったい…。

 「相変わらず師匠(マエストロ)の著作さえ読み込みが浅い。まさに不肖の弟子だな。お前が持ち出した引用の後段にも書かれているだろう。おれさまはチェーザレを『君主論』の第7章『他人の武力または運によって手に入れた新君主国について』のなかで、いわば限定した条件のもとでの君主として評価しているだけだよ」
 (どうも、いつにもましてその場しのぎの気(け)がある)
 筆者の不信感は募るばかりだったが、ここでお師匠様は急に、いつになくしんみりとした口調で話しはじめた。
 「それと、お前がいつだったか的外れにも『イタリアの戦国時代に欠けていた』とのたまわった『人情』だよ。『十年史』から10年−。おれも失脚したばかりか、無実の罪で投獄され、拷問を受けたりして人生の辛酸をなめた」
 「…」
 「故郷(くに)では『運命はそれに従おうとする人を導き、それに逆らおうとする人間をひきずってゆく』という格言があるが、ときに運命は、人がどれほど従順であろうと努力しようと、その人間を不当に虐待することがある。それに気付いたらチェーザレのことをそう無碍には言えないわな」(編集委員 関厚夫)
 ※1 筑摩書房『マキァヴェッリ全集4』
 ※2 リドルフィ著『マキァヴェッリの生涯』(岩波書店)
 ※3 人物叢書(そうしょ)『織田信長』(池田裕子氏著)
 ※4 中央公論社『世界の名著21 マキアヴェリ』


*2017.04.02 産経新聞より
(http://www.sankei.com/life/news/170402/lif1704020022-n1.html)

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内 容 ニックネーム/日時
信長はゴマするのうまかったよね。武田とも親戚だったし、あと同盟は破らないよね。朝倉責めない条約を浅井は結んでないでしょ。一緒に攻めようっていう事で浅井に妹嫁がせたのではないかな。徳川との同盟はまれにみる強固で長期の同盟ではないかな。
井出浩司
2017/05/16 18:21

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