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zoom RSS 【マキャベリ流−是非に及ばず】(14)

<<   作成日時 : 2017/04/16 16:02   >>

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 日本史に関する記事では定評のある産経新聞、今回は数々の著作もある論説委員の関厚夫さんが、マキャベリをとおして日本史を語ります。必見です。

NOBUNAGA(14) 勝利はぬけ目なさ、力、幸運による。正義ではない

 前回、「長篠の戦い」や「三方原の戦い」を語っているうちにお師匠(マキャベリ)様(さん)にさんざんたたかれるはめに陥ったが、これくらいでめげるわけにはゆかない。こだわるわけではないが、反省用の「顰(しか)み像」を描かせたかどうかは別として、徳川家康だって三方原の惨敗を糧に、わずか2年半後には長篠で雪辱を果たしたばかりか、あとは連戦連勝だったではないか。
 「ほう? お前は、天下人と自分を比較できるほどのご身分なのかね」
画像
長篠合戦古戦場の夕景=愛知県・新城市設楽原歴史資料館の屋上から(関厚夫撮影)

 そんなお師匠様の皮肉が、どこかから聞こえてきたような気がするが、屈しまい。気を取り直して話をすすめることにしよう。
 《信玄の所行は、まことに前代未聞の無道、侍の義理を知らず、只今(ただいま)、都鄙(とひ)の嘲弄(ちょうろう)を顧みざるの次第−》
 怒り心頭の織田信長、である。「都鄙」とは都会と田舎−「全国」また「天下」のことだ。元亀3(1572)年11月20日(旧暦)付の信長の書状(原文は漢文)。この一文は《是非なき題目(言語道断)》と結ばれている。
 若干意外、の観があるのだが、あて先は当時、信長が同盟を結んでいた越後(新潟県)の上杉謙信。文中にある「信玄」とはもちろん武田信玄で、1カ月半前、信長と雌雄を決すべく、2万5千の精鋭を率い、甲斐(山梨県)を発していた。

 この書状をさらに読み進めてゆくと、《信長と信玄の間の事、御心底(筆者注・謙信の推察)の外に幾重も遺恨更に休むべからず候、しかる上は未来永劫(えいごう)を経(へ)候と雖も、再び相通じまじく候》とつづられている。
 実際のところは微妙ではあったようだが、信玄が出陣するまで、織田−武田家関係は良好といえた。すでに早世していたが、信長のめいは養女として信玄の後継ぎである勝頼に嫁ぎ、2人の間には将来の当主である信勝が誕生していた。また信長の長男、信忠と信玄の娘、松姫は5年前から婚約中で、あとはこし入れの日取りが決まるのを待つばかりだった。
 加えて信長は、15代将軍・足利義昭の要請を受けるかたちで、信玄と謙信という宿敵間に講和が成立するよう尽力していた。そんなところにいきなり「信玄挙兵」の報。しかもその矛先は自分に向けられている。信長の憤激も無理はなかった。
 謙信への書状から1カ月後に行われた三方原合戦で信玄は徳川・織田連合軍を一蹴。西へと進撃した。当時、越前の朝倉義景や北近江の浅井長政、大坂の石山本願寺、一度は降伏していた大和の松永久秀(弾正)、阿波の三好三人衆らが「反信長包囲網」を形成しており、表だってはいないが、その動きに足利義昭が深く関わっているのは火を見るより明らかだった。

 ところが、この信長に対する一大包囲網はあっけないほころびをみせる。三方原合戦に前後して、晩夏から信長の本拠である尾張・美濃と京都をにらむ北近江に陣取っていた、3万以上とされる朝倉義景軍が突如、越前に帰国してしまったのだ。豪雪の季節が近づいていた。補給路を断たれ、孤立することを恐れての行動だったとされる。
 「兵の過半が帰国されたと聞き、驚き入っております。兵をいたわるのは勿論のことではございますが、信長滅亡の時刻が到来したといいますのに、これではせっかくの苦労が功なく終わることになります。あれこれお考えになりすぎではないでしょうか」
 三方原合戦の6日後にあたる元亀3年12月28日、信玄が朝倉義景にあてた書状の要約である。文面からは驚愕(きょうがく)とともに信玄の失意、何とかして義景を翻意させようとする焦りがにじみ出ている。おそらくこの報も遠因の一つになったのだろう。翌年4月、信玄は陣中に没する。53歳。
 信長最大の危機は去った。
 「放っておいたら相手の方から転んでくれる。この信長の運のよさをどう理解したらいいんでしょうか」
 そうお師匠様に尋ねてみると、何がおかしいのか、不気味な含み笑いで相好を崩しながら話しはじめた。

 「昔、アレクサンデル6世というとんでもないローマ法王がいた。おれの親友、グイッチャルディーニなんかは『その貪欲さのすべての実例をもって、全世界を毒した蛇』とまで罵(ののし)っているがね。その法王についてグイッチャルディーニはこうも書いている。《彼は若い時から生涯の最後の日々に至るまで、極めて稀有(けう)な、ほとんど恒常的ともいうべき幸運に恵まれた。常に最大のものを求め、常に望み以上のものを得た。これは、人間の目の弱さをもって神の審判の深さを見極めることができるとして、人間の繁栄や不運はその人間自身の価値、あるいは無価値によるものである、と断言する人びとの傲慢さに水を差す一つの実例である》(※1)ってな」
 「はあ?」
 「まあ、グイッチャルディーニって野郎は物堅いところがあるから、《しかし、神の尽きることのない力は現世という狭い枠内に包含し得ないのであり、来世、あるいはこの世以外の場所で大きな手によって正しいものと正しくないものを識別し、その報いと永劫の罰を与えるのである》と続けているがね」
 「はあ…」

 「奴(やつ)の言葉ではおれはむしろ《戦いでは正義があるからではなくて、ぬけ目のないこと、力、それに幸運にめぐまれることによって勝利を手にすることができるのである。正義のよりどころがあれば間接には役に立つかもしれない。けれども正義が直接に作用するというならば、それはうそになる》(※2)の方に真実があると思うがね。それはいいとして、このとんでもない法王の息子ってのを知っているかい? 一時(いっとき)だけだが親父(おやじ)ゆずりの前代未聞の幸運に恵まれた野郎。そして残念ながら『イタリアの信長』になりそこねた男、チェーザレ・ボルジアさ」(編集委員 関厚夫)
 ※1 太陽出版『イタリア史III』、一部編集
 ※2 講談社学術文庫『フィレンツェ名門貴族の処世術』、一部編集

*2017.03.12 産経新聞より
(http://www.sankei.com/life/news/170312/lif1703120009-n1.html)

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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
もし信玄が5年長生きしたら、とか考えると面白いけどね。秀吉が5年生きてれば、3度目の半島への出兵だろうね。前2回はエースと4番出てないから、どうなったかわからないね。(エースと4番:徳川、前田、上杉、伊達、最上とか日本の6割だね)
井出浩司
2017/04/16 21:49

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