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zoom RSS 【マキャベリ流−是非に及ばず】(13)

<<   作成日時 : 2017/04/02 16:45   >>

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 日本史に関する記事では定評のある産経新聞、今回は数々の著作もある論説委員の関厚夫さんが、マキャベリをとおして日本史を語ります。必見です。

 
NOBUNAGA(13)信頼せよ。祖国のために死を覚悟した人間は
 これはお師匠(マキャベリ)様(さん)、また世界に対して大いに誇ってよいことだと思うのだが、弱肉強食で非情のきわみにあったと思われがちな戦国時代は、実は美談の宝庫である。前回に続いて「長篠の戦い」でその一人を挙げるとすると、やはり鳥居強右衛門(すねえもん)だろう。
 長篠合戦はたとえて言えば「起承」と「転結」の2部構成をとっている。
 「起承」にあたるのが、天正3(1575)年5月11日(旧暦)、武田勝頼軍が徳川家康傘下の長篠城に対する本格攻撃を始めたこと。城主・奥平信昌はわずか500の軍勢で1万5千もの勝頼軍に善戦したが、たちまち形勢は圧倒的に不利となり、落城は時間の問題となった。
画像
長篠城跡にほころぶ白梅=愛知県新城市(関厚夫撮影)

 唯一の望みは織田信長軍の来援だった。奥平の家臣、強右衛門は主命を受けて城を抜け出し、約40キロ西の岡崎近辺で信長と家康に対面。「援軍到来」の吉報を届けるために敵陣突破して長篠城に戻ろうとするさい、捕らえられた。

 「天下のご意見番」の大久保彦左衛門の『三河物語』によると、勝頼は縄目の強右衛門に「長篠城前で『信長軍は来ない。降参せよ』と言え。そうすれば命を助けたうえ、加増して召し抱えてやる」と持ちかけた。強右衛門は二つ返事で引き受け、城前に連れて行かれると声をふりしぼり、「信長様はすでに岡崎城にあり、先鋒(せんぽう)の大軍は(約20キロ西の)一宮・本野が原に満ちている。あと、3日の辛抱ぞ!」と叫んだ。

 強右衛門はそのまま処刑され、「長篠の戦い」は信長軍と勝頼軍が有海(あるみ)原(設楽原(したらがはら))で激突する「転結」へと急「転」直下する。
 お師匠様はかの『君主論』でこう論じておられる。
 《市民が君主の存在に必要性を感じている平和な時代のうわべだけを見て、そのまま、あてにしてはいけない。平時にあっては、だれもがみなはせ参じたり、約束してくれるのである。死がはるかかなたとみるときは、みながみな、わが君のためには死をも辞さないと言ってくれるのである。だが、いざ風向きが変わって、君主がそうした市民をほんとうに必要とするときがくると、とてもそういう人間は見いだせるものではない》(※1)
 ああ、嘆かわしい。何という人心の荒廃。同じ戦国時代にあっても日本とイタリアとではかくも人の心の持ち方が違うのである。

 再び胸を張って述べたい。わが国の戦国時代においては数多(あまた)の強右衛門がいる。長篠の戦いの前哨戦ともいえる「三方原の戦い」に散った、徳川家康の家臣、夏目吉信もその一人である。
 元亀3(1572)年12月、織田信長と雌雄を決すべく、武田信玄率いる精鋭2万5千の甲斐軍は西上を続けていた。そこに家康軍8千に織田方の宿将が率いる3千を加えた連合軍が浜松城から打って出、北へ約10キロほどの場所にある三方原台地(静岡県浜松市)で激突した。
 「いかに武田が猛勢であっても、城下を蹂躙(じゅうりん)して進撃するのを居ながらにして傍観する理(ことわり)はない。これ以上の武士の恥辱もない。後日、家康は敵に枕の上を越されて進撃されても、寝たまま起き上がらなかった臆病者だと世にも人にも嘲(あざけ)られることこそ、末代までの恥辱である!」
 『徳川実紀』の「東照宮御実紀附録巻二」によると、家康はそう言うや、いさめていた家臣ともども浜松城から出陣した。だが、武田軍の強さは想像を絶していた。

 一大敗戦。家臣たちは浜松城への退却を勧めた。しかし家康は「面目すでになし。ここで討ち死にするばかり」と拒否。そこに駆けつけた夏目吉信は家康の近習に「わしが身代わりになるから、急いで殿をお連れして帰城せよ」と命ずるや、十文字の槍(やり)を手に「われこそは徳川家康なり」と大音声で名乗りを上げて手勢とともに武田軍に立ち向かい、獅子奮迅の働きをしつつ討ち死にした。
 はるか後年、家康は吉信の息子たちを召し出し、「いま天下統一の大事業がかなったのもすべてお前たちの父の忠節のおかげである」と涙ながらに語ったという。
 「三方原の戦い」は家康にとって生涯の教訓となった。彼は忠告を聞かずに大敗し、多くの家臣を失う結果にいたった無分別や慢心を戒めるために、憔悴(しょうすい)し、困惑しきった表情としぐさをしている己の姿を描かせた。それが「顰(しか)み(しかめっ面)像」とも呼ばれ、現代に伝わる「徳川家康三方ケ原戦役画像」である。
 −と、ここまで気分よく書いていたら、突然、大音声が四方に鳴り響いた。
 「この唐変木(とうへんぼく)! 黙って聞いていたら調子に乗りやがって。勉強不足と取材不足もいいかげんにしろ! お前は知らないのか? 『顰み像』はそれを所蔵している徳川美術館の学芸部長代理が『本図を三方ケ原合戦における敗残の姿として描いたとの従来見解は、古くとも昭和十一年(一九三六)一月以前に遡(さかのぼ)る史料的根拠がないため、否定せざるを得ない』(※2)と結論付けた論文を書いているじゃないか!」

 (なんでまた、そんなことを知っているんだ?)
 呆然(ぼうぜん)とする筆者をお師匠様は容赦なくせめたてた。
 「乱世のイタリアの人情にしても上っ面だけのいいかげんなことを言いやがって…おれの『戦争の技術』を読め! 『祖国のために死を覚悟した人以上に、いかなる人間により多くの信頼を置けるというのでしょうか? 戦争そのものによって傷つけられる人以上に、何人がさらなる平和を慈しむものでしょうか?』(※3)なんていう深遠な一文があるだろうが! それに『政略論』にある『だれでも戦争をはじめようと思えば、いつでも好きなときにこれをはじめることができるが、やめるときにはそうはいかない』(※4)という名文句を忘れたのか!」(編集委員 関厚夫)
 ※1、※4 中央公論社『世界の名著21 マキアヴェリ』
 ※2 原史彦氏「徳川家康三方ケ原戦役画像の謎」
 ※3 筑摩書房『マキァヴェッリ全集1』

*2017.03.05 産経新聞より
(http://www.sankei.com/life/news/170305/lif1703050008-n1.html)

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コメント(1件)

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目の前で鳥居強右衛門を磔とかすると、相手の戦意が高ぶるよね。
井出浩司
2017/04/02 23:00

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