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zoom RSS 【マキャベリ流−是非に及ばず】(12)

<<   作成日時 : 2017/03/26 21:22   >>

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 日本史に関する記事では定評のある産経新聞、今回は数々の著作もある論説委員の関厚夫さんが、マキャベリをとおして日本史を語ります。必見です。

NOBUNAGA(12)徹底的な勝利を望む者は、しばしば敗北する

 戦国時代の古戦跡をめぐっていると戸惑うことがある。四百数十年も前に起きたことなのだから当たり前と言えば当たり前なのだが、風景はすでに一変、あたりを眺めているかぎりでは、当時を想像することが難しいのである。
 桶狭間合戦の取材で織田信長軍と今川義元軍の軌跡をたどったときには碑や説明板はあるものの、一帯は住宅地や商工業地になっていることが多く、面食らってしまった。
 信長・徳川家康連合軍と武田勝頼軍が激突した「長篠の戦い」の主舞台・設楽原(したらがはら)古戦場(愛知県新城(しんしろ)市)。ここにはまだ戦国時代の面影が残る。それでも、武田軍の左翼が陣取った場所に建つ新城市設楽原歴史資料館の屋上から信長・家康軍が陣取っていた付近を眺めたとき、軽い失望を禁じえなかった。
 「平坦(へいたん)の部分甚(はなは)だ少なく自在に馳駆すべき地にあらず」などと迫力たっぷりに参謀本部編『日本戦史 長篠役』が描いた情景は何処(いずこ)、のどかな田園風景が広がっていた。
 天正3(1575)年、ここで対峙(たいじ)していた信長・家康軍は3万、対する武田軍は1万5千とされる。寡兵。しかし勝頼は父・信玄死後も着々と領地を拡大し、隣国の家康に対しては因縁の地・長篠をめぐって1敗した後は連勝。3年前の「三方原の戦い」で家康を撃破した信玄恩顧の名将たちも健在だった。
 〈かくて5月21日(旧暦)の夜もほのぼのと明けたので信長公は先陣に参られ、家康卿とともに見分なされた。信長公は手はず通り、各部隊から鉄砲3千挺分の射手を選抜し、佐々成政(さっさ・なりまさ)、前田利家、福富秀勝、塙直政(ばん・なおまさ)、野々村正成(まさなり)の5人を司令官に任じられ、「武田の騎馬軍が襲撃してきたならば1町(約109メートル)に近づくまで鉄砲を撃つな。間近にまで引きつけ、千挺ずつ撃ち放ち、後は一段ずつ立ち替わり立ち替わり撃つのだ」と命じた〉
 小瀬甫庵(おぜ・ほあん)作の『信長記』が描く長篠合戦の開戦直前の情景である。この記述が典拠となり、後世、「鉄砲3千挺の3段撃ち」が「戦国時代最強」をうたわれた武田家の騎馬軍団を粉砕した−と伝えられるようになるのだが、近年「3千挺」は「数千挺」に「3段撃ち」については「実際問題として千挺単位ではありえない」との解釈が支配的になってきている。
 儒家兼医家だった甫庵の『信長記』(以降、「甫庵信長記」)の成立は江戸時代初期。数ある「信長本」のなかでも、信長が生きた時代に最も近いものの一つなのだが、刊行当時からその信憑(しんぴょう)性については疑問視されていた。

 たとえば、旗本として家康をはじめ三代の将軍に仕えた「天下のご意見番」、大久保彦左衛門は『三河物語』に「『甫庵信長記』は偽り多し」とし、「事実」「似たこともあった」「跡形もないこと」がそれぞれ3分の1ずつを占め、「長篠」をはじめ「勝負(合戦)」の記述に偽りが多いと非難している。
 こうしたことから、現在では「甫庵信長記」は、信長の近臣だった太田牛一著『信長公記』をタネ本にして加筆・潤色した「物語風伝記」との評が定着している。
 とはいえ、信長・家康軍の強力な鉄砲部隊が騎馬部隊を中心(軍編成についても異説あり)とした武田軍を撃破したことは確かだ。
 〈敵(武田軍)は入れ替わり突撃してきたが、お味方は1人も出陣することなく、鉄砲だけを増強して迎え撃つことによって敵をねり倒し、撃ち倒し、退却させた〉
 『信長公記』にはそうつづられている。
 〈度々の合戦で場数を踏み、名声を得たる武将衆が入れ替わり入れ替わり一心不乱に攻撃し、一歩も引くことがなかったところに雨脚のような鉄砲の弾が命中し、彼らはその場で討ち死にした〉

 こちらは『三河物語』の記述なのだが、長篠合戦を決したのは鉄砲だけではなかった。波状に迫る武田軍を波状に鉄砲で迎撃できたのは、戦場を南北に流れる連吾川を堀に見立てて約2キロにわたり、何重にもほどこされたという「馬防柵」のおかげだった。
画像
長篠合戦古戦場に復元された「馬防柵」=愛知県新城市(関厚夫撮影)

 勝頼は《信長は陣城(じんしろ)(臨時の城)を構え、籠居し候》と「卑怯(ひきょう)にも正々堂々の勝負を避けた」と言いたげな書状を残している。しかしながら、信長が着陣したのは18日。最強の武田軍を粉砕することのできる防御施設をわずか数日で完成させているのだ。
 さらに決戦当日は梅雨にもかかわらず火縄銃の使用に支障をきたす雨が降ることはなかった。軍事・土木・建築技術、天運−すべてにおいて信長は勝頼を凌駕(りょうが)していた−。
 「あーあ、眠い眠い。知っている奴(やつ)は知ってるようなことをしたり顔でうじゃうじゃ言ってないで、もっと本質を突く話をしたらどうだ」
 出た、お師匠(マキャベリ)様(さん)。悪口雑言には慣れた身なれど、少しは遠慮というものが…。
 「何をぶんむくれているんだ? 『信長公記』をよく読んでみろ。『信長は敵をことごとく討ち果たす一方で、味方が一人も死傷しないように智恵をしぼった』と書いてあるだろう。まったく大した野郎だぜ。おれさまは『フィレンツェ史』で『ほどほどの勝利で満足する者は、常にそこから利益を手に入れるが、徹底的な勝利を望む者は、しばしば敗北する』(※1)との格言を紹介したが、その真逆をゆきやがった。でも、だからおれは信長が好きなんだ」

 (なんで信長へのごひいきの万分の一も弟子に寄せようとはしないんですかねえ)
 筆者の心中にわき起こる不満を知ってか知らずか、お師匠様はご機嫌のまま続けた。
 「勝頼についてはあれだな、『人間というものは、自分の希望をどの線に止めておいたらよいかもわからないままに、失敗してしまうものである。そして自分の実力を冷静におしはかってみようともせず、底なしの望みのうえに期待をかけて、結局は破滅してしまう』というおれさまの『政略論』(※2)の一節を読んでおくべきだったな」(編集委員 関厚夫)
 ※1 岩波文庫『フィレンツェ史(上)』(齊藤寛海氏訳)
 ※2 中央公論社『世界の名著21 マキアヴェリ』


*2017.02.26 産経新聞より
(http://www.sankei.com/life/news/170226/lif1702260032-n1.html)

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長篠は普通に考えて単純な突撃しないよ。新田次郎の「武田勝頼」の描写によく書いてある。
足軽が盾で防御しながら少しずつ柵に近づいて紐付いた釣り針見たいので柵を崩してそこから侵入した。
ただ、戦力は1:3なんで結局負けた。
なぜ決戦したかといえば、武田と織田だと経済の膨張力が圧倒的に違うから。
鉄砲10丁買う間に100丁買っちゃうね。
あの段階でイチかバチかで決戦するしかないでしょ。

日本が真珠湾決意したのも、1年遅れればアメリカが太平洋艦隊だけの海軍力で上回るからだね。
これも、降参しないなら、戦うなら、どちらも、この時期、これしかなかったと思う。
井出浩司
2017/03/27 07:15

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