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zoom RSS 【マキャベリ流−是非に及ばず】(7)

<<   作成日時 : 2017/02/18 23:56   >>

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 日本史に関する記事では定評のある産経新聞、今回は数々の著作もある論説委員の関厚夫さんが、マキャベリをとおして日本史を語ります。必見です。

NOBUNAGA(7)幸運は人智を超えて訪れる。どんな苦境でもあきらめてはならぬ

 「そこだよ、目の前のそれそれ。人一人通れるくらいのわき道があるだろう。そこを上ってゆくと、原っぱと畑がある。そのあたりがお探しの“丹下砦(とりで)跡”だよ。見晴らしはよいけれど、碑だとか説明板とかはなにもないよ」
 名古屋市緑区鳴海町。近くに住む壮年の男性は、筆者に対して気の毒そうにそう道案内してくれた。「桶狭間合戦を追え」というわがお師匠(マキャベリ)様(さん)のご託宣を実行に移すべく、古戦跡を訪ね歩いていたときのことだった。
 永禄3(1560)年5月19日(旧暦)の明け方、約20キロ北方にある本拠地・清洲城(愛知県清須市)を主従わずか6騎で出立した織田信長は、途中、熱田神宮での戦勝祈願をはさんで駆けに駆け、まずはこの丹下砦に入り、次いで南東へ約800メートルの場所に築いていた善照寺砦に移動し、軍勢を整えていた。
 ときは午前11時ごろだったろうか。織田家の領内に攻め込んだ後、「おけはざま山」で休息をとっていた今川義元軍の本陣まで、直線距離であと約3・5キロに迫っていた。
 さてこれからは地図も参照しながらお読みいただきたいのだが、この後、2千の手勢で10〜20倍とされる義元軍に挑む信長軍の進路は2説ある。北東へぐるりとまわるや急転直下、義元の本陣を突いたという「迂回(うかい)奇襲説」と南の中島砦へ駆け下り、そのまま義元本陣に向かったとする「正面攻撃説」である。

 参謀本部編『日本戦史 桶狭間役』が信長の家臣、梁(簗)田政綱(やなだ・まさつな)の発案と説く「迂回奇襲説」は小説などでもおなじみだが、近年旗色が悪い。いまでは代わって『信長の戦争』の著者、藤本正行氏が提唱した、『信長公記』を典拠とする「正面攻撃説」が主流−との観がある。
 とはいえ、戦国時代史研究の第一人者、小和田哲男氏の近著『東海の戦国史』によると、「正面攻撃説」に収斂(しゅうれん)されてしまったわけではなく、諸家が「正面強襲(奇襲)説」や義元軍が略奪に夢中になっていたとする「乱取状態急襲説」などさまざまな自説を展開している。
 ちなみに、なぜ駿河・遠江・三河の三国を従え、「東海一の戦国大名」であった今川義元が4万5千とも2万5千ともいわれる大軍を率いて尾張の織田領内に進撃してきたのか、についても新旧の説が入れ替わりつつある。
 ひと昔前までは京都で天下に号令するという「上洛(じょうらく)説」で落着していたのだが、これまた『東海の戦国史』によると、いまでは「上洛否定の立場にたつ研究の方が主流になってきている」。ただその理由については(1)三河確保説(2)尾張今川領回復説(3)尾張奪取説−などさまざまな見解があるのが現状だという。
 「桶狭間合戦はバクチを打つより法がなかったから打ったに過ぎない。彼のバクチは桶狭間の時以外にはない」
 作家、海音寺潮五郎は『武将列伝』の「織田信長」でそう記している。同書で海音寺が義元上洛・迂回奇襲説を採用しているのは彼の時代の研究成果の限界であるから仕方がないとして、近年、信長が今川義元軍を巧妙に桶狭間合戦に誘い込んだ−との説が出され、合戦がバクチか否かについても異論が出ている。
 しかしながら、『信長公記』が記すところの信長軍の動きをたどってゆくと一つ、確かにバクチを打ったとしか思えない決断がある。
 丹下砦→善照寺砦→中島砦→今川義元本陣へ−という信長軍の進撃(正面戦)ルートのうち、丹下砦と善照寺砦は今川軍の最前線基地である鳴海城を囲み、監視できる高台にある。
 ところが、中島砦は手越川沿いの平地に位置している。義元本陣に肉薄してはいるものの、中島砦を起点に攻撃を仕掛けようものなら、信長軍が寡兵であること、またその動きを鳴海城をはじめ眼上の今川勢にさらしつつ、敵のまっただ中に突っ込んでゆくかたちになる。

 案の定、家老たちはまず中島砦に移動することについて信長の馬の轡(くつわ)をとり、口々に「軽挙」と諫(いさ)めた。さらに信長が中島砦から義元本陣へ打って出ると下知したときには「無理にすがり付」いてまで止めようとした。
 ここで信長は吠(ほ)える。
 「あの武者(今川勢)、辛労して、つかれたる武者なり。こなたは新手(あらて)なり。其(そ)の上、小軍にして大敵を怖るることなかれ。運は天にあり。此(こ)の語は知らざるや」
 そして、信長軍が義元本陣間近の「山際(やまぎわ)」にいたったところ、付近は一転にわか雨と強風に見舞われ、今川勢の前面に《石氷を投げ打つ様》な雨が襲いかかった。この機に乗じた信長は先頭に立って今川軍を切り崩し、家来の一人が義元の首をあげる。信長を勝利に導いた一連の自然現象について『信長公記』の記述は《余(あまり)の事に、熱田大明神の神軍(かみいくさ)かと申し候なり》(傍点は筆者)。
 「そーら、前回おれが言った通りだろう。信長の『神格化』は桶狭間にはじまるって。それにしても『運は天にあり』とは、いやあ、しびれるねえ。信長の奴(やつ)とは気があうようだ。知っているかい? おれさまの名著『政略論』に『運命(フォルトゥナ)はなにをたくらんでいるかわからないし、どこをどう通りぬけてきて、どこに顔をだすものか皆目見当もつきかねるものであるから、いつどんな幸運がどんなところから飛びこんでくるかもしれないという希望をもちつづけて、どんな運命にみまわれても、またどんな苦境に追いこまれても投げやりになってはならない』(※)と書かれていることを」

 例によってお師匠様のおでましだ。きょうのところはおとなしく聴いておこう。ふふふ。筆者が「次」にむけて反撃の「隠し球」を用意しているとは知る由もあるまい…。(編集委員 関厚夫)
 ※中央公論社『世界の名著21 マキアヴェリ』
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*2017.01.22 産経新聞より
(http://www.sankei.com/life/news/170122/lif1701220013-n1.html)

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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
「桶狭間合戦」も実際は平地決戦だったみたいよ。
井出浩司
2017/02/19 16:24

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