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zoom RSS 【マキャベリ流−是非に及ばず】(5)

<<   作成日時 : 2017/02/05 21:13   >>

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 日本史に関する記事では定評のある産経新聞、今回は数々の著作もある論説委員の関厚夫さんが、マキャベリをとおして日本史を語ります。必見です。

NOBUNAGA(5) 肩で風切る傲慢なる者よ、汝らの明日など知れぬのだ

 「おれさまを師(マエストロ)と呼べ」と奴(やつ)はのたまう。
 何をばかな、と思う。「押しかけ女房」や「押しかけ弟子」なら聞いたことがあるが「押しかけ師匠」とは…。この過剰ともいえる自意識がルネサンス精神なのかもしれないが、大和心ではない。
 是非に及ばず−。
 織田信長が意味したように「言語道断!」と切って捨てたいところだが、ここは一番「やむをえない」との国語辞典の解釈に従うとするか…。
 第一、そう諦念しないと、「マキャベリで斬る日本史」という綱渡りのようなテーマの綱の上にも乗れない。とはいえ、“頼みの綱”というわけではなく、“わら”または“蜘蛛(くも)の糸”にすがっているというのが現状なのだが。
 とにかくここは我慢−。
 あれこれと思いにふけっているうちに、年が明けた。さて以下は合戦の記述のようだが、実はそうではない。435年前、『信長公記』が描く年賀での出来事である。

 《生便敷(おびただしき)群集にて、高山へ積み上げたる築垣(ついがき)を踏みくづし、石と人と一ツになりて、くづれ落ちて、死人もあり。手負は数人員(かずひとかず)を知らず、刀持ちの若党どもは、刀を失ひ、迷惑したる者多し》
 天正10年元日、場所は安土城。織田家一門や大名・小名らが大挙して年賀に訪れた。彼らが「百々(どど)橋口」から城内へ上ってゆこうとしたときの惨事だった。「本能寺の変」はこれからちょうど5カ月後に起こる。あとから思えば凶兆だったのだが、織田信長が意に介することはなかったようだ。
画像
朝焼けに映える安土山と琵琶湖の内湖・西の湖(関厚夫撮影)

 信長は順に天主閣に迎え入れ、前庭で待つ一段格下の旗本や地侍たちには「外では寒かろうから『南殿』の見物でもしていたらどうか」とやさしげなことばをかけた。
 ふんだんに金をあしらい、風景画の名作の数々で飾られたこの御殿も立派だったが、一同が最も感激したのは、天皇が行幸するさいに迎え入れるための「御幸(みゆき)の間」の拝覧まで許されたことだ。
 ここはもう、《殿中悉(ことごと)く惣(総)金》で《上もかがやき下も耀(かがや)き、心も詞(ことば)も》失ってしまうほどの壮麗さ。御簾(みす)があり、天皇の御座(ぎょざ)と思われる場所は一層金色の光を放ち、妙(たえ)なる薫香がたかれていた。

 さて“逆お年玉”と言うべきなのだろうか、信長は参賀に訪れた家臣たちから100文(1万円前後?)の「御礼銭」を、「もったいなくも」(『信長公記』)手ずから受け取った。そのほか贈答に供された金銀や名品・珍品の類の《生便敷(おびただしき)様躰(ようてい)》は言語を絶するほどだった。
 信長は、最盛期を迎えつつあった−。
 「『人びとは富めば富むほど、また権勢がつのればつのるほど、かつて運命の女神から受けた恩を忘れ去る。/誰もが、身の不幸はすべて彼女のせいにする一方、成功するとそれは自分の実力によるものと思い込むからだ』(※1)ってこと。また『傲慢なる者たちよ、肩で風を切って歩くがよい。だが、王笏(おうしゃく)を、王冠を持つ汝らといえども、明日の真実など何一つ分かりはせぬ』(※2)ってなところだ。古今東西、独裁者とか言われる奴らの末路はそんなもんだぜ、気をつけな。いやあ、それにしてもわれながら才能と詩情あふれる名文だ」
 奴、いやいやお師匠(マキャベリ)様(さん)だ。この人、言っていること自体は悪くはないんだが、どうもひと言多い…。
 435年後の安土城(跡、滋賀県近江八幡市)。
 現在、百々橋から登ってゆくルートは閉ざされている。来訪者は「天皇行幸のさいの隠し大通り」という可能性も指摘されている大手道を通って山頂の天主跡へと向かう。

 大手道といっても過半が急な石段であり、計400段強もある。標高は200メートル弱だが、山頂との高低差は100メートルほど。それでも息を切らせながら登っているうち、どこかで同じ経験をしたような思いに駆られた。天主跡に到着し、一面に琵琶湖の内湖が広がっていた往時の絶景をしのんでいたとき、ひらめいた。
 京都・愛宕山−。勝軍地蔵を祀(まつ)っていたことから信長をはじめ戦国武将の聖地であり、明智光秀が本能寺の変を決断した山頂の愛宕神社をめざして登坂していたときの急勾配の参道と似ているのだ。
 同時に、この日の明け方の記憶がよみがえった。琵琶湖の内湖・西の湖畔から見える朝日は安土山とその背後の観音寺山から昇ってきた。
 安土城天主が建設されたのは438年前。『信長公記』が記す、地下1層部分がある石蔵と金色に輝く6層の天主を単純に足し算すると高さは50メートルをゆうに超える。そんな巨大な建築物が実質的な高さ100メートルほどの山頂にあり、そのわきを本丸や三の丸といった壮麗な建築群が固めている。さらに中腹には、一つ一つが「立派な砦(とりで)」(イエズス会日本年報)ともいえる重臣たちの「非常に豪華な邸宅」(同)が軒を連ねていた。

 ただでさえ前代未聞の威容である。そこにきて西から見れば、天主を頂点としたこの城塞都市から陽が昇り、東から見ればそこに陽が沈んでゆく。当時、この光景を目の当たりにした者は神々(こうごう)しささえ感じたにちがいない。
 信長は神になろうとしていた−。宣教師、ルイス・フロイスが唱え、賛否分かれる説がにわかに現実味を帯びてきた。435年前、信長が家臣から徴収した100文はまさに彼という神に対する拝観料あるいは賽銭(さいせん)代わりであり、さらには“喜捨”された金品財宝が山をなしていた…。
 そんなことを考えていると奴、いやわが師が現れ−。
 「やれやれ、相変わらずおめでたい野郎だ。想像の世界に遊んでばかりいないで、少しはおれの『君主論』に目を通しておけ。15章の冒頭に『読む人の直接役にたつものを書け。想像の世界より、具体的な真実を追求せよ』(※3)と書いてあるだろう」
 あいててて…。(編集委員 関厚夫)
 ※1 筑摩書房『マキァヴェッリ全集4』から諷刺(ふうし)詩「運について」。一部編集
 ※2 同・叙事詩「イタリア十年史 その二」
 ※3 中央公論社『世界の名著21マキアヴェリ』。一部編集

*2017.01.08 産経新聞より
(http://www.sankei.com/life/news/170108/lif1701080024-n1.html)

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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
このころは、「そのうちやっちまうだろうな」と思ってた人はいただろうね。直後の武田攻めもむごかったしね。
井出浩司
2017/02/06 11:21

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