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zoom RSS 【敗者烈伝 番外・勝者編】〜源頼朝 大政治家に「恐妻」の墓穴 作家・伊東潤

<<   作成日時 : 2016/06/26 14:32   >>

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 産経新聞で作家の伊東潤さんが日本史の敗者に光を当てる素晴らしい歴史エッセーを連載しています。

 「極めて慎重で冷酷非情な男」という一般的な源頼朝のイメージは、京都神護寺に伝わる「伝源頼朝像」に拠(よ)るところが大きい。昨今は諸説あるものの、ある程度の年齢以上の方々にとって、頼朝と言えば、この像が添付されることが多く、そこからイメージが固定化されていった気がする。
 むろん平家を滅亡に追い込み、義経や範頼(のりより)といった弟たちを殺し、反逆もしていない佐竹秀義、上総広常(ひろつね)、藤原泰衡(やすひら)といった勢力を滅亡に追いやった事実からも、頼朝は「極めて慎重で冷酷非情な男」と呼ばれるに値する。
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近年は別人説も提起されている「伝源頼朝像」(模本、東大史料編纂所蔵)

 徳川幕府や明治政府もそうだが、政権初期においては、いかに理不尽だろうが、反逆の芽を摘み取っておかないと、その政権は長続きしない。それを成し得たのが、頼朝、徳川家康・秀忠・家光の3代、そして大久保利通であり、その結果、それぞれの政権は長期的安定を見た(頼朝の鎌倉幕府は執権北条氏に、大久保の政府は長州閥に乗っ取られたが)。

 いずれにせよ、頼朝が政治家として優れていたのは間違いない。何と言っても公家に同化した平家と同じ轍(てつ)を踏まず、鎌倉に武家政権の本拠を置き、後白河院に守護・地頭の設置を承認させるなどして、朝廷を追い込んでいった点は実に巧妙だった。
 頼朝は先を急がず、既得権を持つ公家社会に対して強硬な手段に出なかったので、朝廷や公家たちは「ゆで蛙」のようになり、権力と財源(荘園)を徐々に奪われていったのだ。
 それが白日の下に晒(さら)されるのは、頼朝の死後に勃発した承久の変においてで、鎌倉方の圧勝というその結果を見れば、政治家としての頼朝の手腕が、並でなかったのは明らかである。
 それでは頼朝は、軍事統率者としてどうだったのだろうか。頼朝は自ら槍(やり)を取ることはもとより、陣頭に立って戦闘を指揮したり、また作戦を立てたりもしなかった。このことから、「武」については不得手という評価が定着している。とくに平家討伐戦において、弟たちに軍事指揮を任せきりで、自らは鎌倉を動かなかったのが、それを如実に表している。上野(こうずけ)国の新田氏や奥州の藤原氏の南下に備えていたというのが、その理由だが、頼朝が留守にした鎌倉を、彼らが陥れようとする可能性は極めて低い。

 これでよく平家に勝てたと思うが、義経という有能な軍事指揮官の存在が大きかった。しかし頼朝は、少しでも不穏なにおいを嗅ぎ取れば、弟の義経でも失脚させるという非情な一面も持っていた。
 頼朝は組織づくりにも長(た)けており、また人材を見抜く目もあった。荒々しいだけの武士たちを政権の中枢に就けず、大江広元や三善康信といった京都出身の文官を重用することで、幕府を盤石なものにした。
 彼らは、手探り状態の武家政権に「御恩と奉公」という統治概念を持ち込み、幕府の経済基盤を早急に確立しただけでなく、執権・連署・評定衆といった政務決定機関と、政所(まんどころ)・侍所(さむらいどころ)・問注所(もんちゅうじょ)といった行政機関を創設した。
 また守護と地頭の設置により、御家人たちの所領や権益を確保してやったので、「功を挙げれば報われる」という実感が武士たちに植え付けられ、それが義経や奥州藤原氏追討において効いてくる。

 それほどの大政治家である頼朝が唯一、ミスを犯したのは妻の政子に甘く、その実家である北条氏の勢力伸長を野放しにしたことである。
 漢帝国を築いた劉邦(りゅうほう)が、妻の実家である呂氏(りょし)に国を乗っ取られた故事を、頼朝が知らないはずはない。自らが急死するとは思わなかったのかもしれないが、この小さな油断から、源氏の正統は断たれることになる。
 天下人の適性においては徳川家康に、政治家としては大久保利通に並ぶ評価を与えてもよい頼朝だが、その最期は謀殺だった可能性が高い。もちろん犯人は、それで最も得をした連中である。
 いずれにせよ頼朝によって武家政権は誕生し、以後、140年余にわたり、鎌倉幕府は安定する。この後に続く武家政権に道筋を付けたことでも、頼朝の功績は実に大きい。
 次回「足利尊氏」は3月3日に掲載します。
【用語解説】源頼朝
 みなもとのよりとも 久安3(1147)年、東国に勢力を持つ武将、源義朝の三男として生まれる。平治の乱で父が敗れ、伊豆に配流。20年後、以仁王の平氏追討の令旨に応じて挙兵。鎌倉を本拠に東国を掌握し、弟の義経らを西に派遣して木曽義仲、平氏を滅亡させる。さらに義経、奥州藤原氏を滅ぼし、征夷大将軍となって初の武家政権である鎌倉幕府を開いた。正治元(1199)年、死去。
【プロフィル】伊東潤
 いとう・じゅん 昭和35年、横浜市生まれ。早稲田大卒業後、外資系IT企業勤務、コンサルタントなどを経て、平成19年に「武田家滅亡」で文壇デビュー。25年、「巨鯨の海」で山田風太郎賞受賞。

*2016.02.25 産経新聞より
(http://www.sankei.com/life/news/160225/lif1602250032-n1.html)

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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
徳川家のすごいところは、正妻の子から次の将軍出てないのではないかな。
普通の家見てると、「恐妻」の墓穴っていう事になっちゃうよ。
井出浩司
2016/06/26 21:04

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