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zoom RSS 【敗者烈伝】〜徳川慶喜(下)策におぼれた「小才子」の限界 作家・伊東潤

<<   作成日時 : 2016/05/21 22:26   >>

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 産経新聞で作家の伊東潤さんが日本史の敗者に光を当てる素晴らしい歴史エッセーを連載しています。

 参預会議は崩壊したものの、元治元(1864)年3月、徳川慶喜は朝廷に擦り寄り、新設の禁裏御守衛総督に任命された。幕府と距離を取った慶喜は、京都守護職の会津藩と同所司代の桑名藩の軍事力を背景に、京都政界を支配する(一会桑勢力)。
 こうした流れを挽回すべく、巻き返しに出た長州藩だったが、同年6月の池田屋事件と7月の禁門の変で、再び後退を余儀なくされた。
 その後も長州処分問題や条約勅許問題などで、慶喜は政治的暗躍を続けるが、朝廷、幕閣、薩摩藩などから「変説漢(変節ではない)」と呼ばれるようになり、会津・桑名両藩なくして、その政治生命は危ういものとなっていった。
 慶喜が小知恵を働かせて動けば動くほど、周囲は慶喜から離れていくのだ。
 慶喜と一会桑勢力が断固として譲らなかった長州征討だが、慶応2(1866)年の第二次征討が実質的な敗北に終わり、幕府の権威は失墜する。
 こうした最中に将軍家茂が病死することで、慶喜は将軍職に就かざるを得なくなる。
 それにしても慶喜という男は不思議である。頭は切れるのだが、一貫した政治方針はなく、状況の変化に応じて、態度をころころ変えていくだけなのだ。とにかく目先のことしか見えないので、どたばたと変節していくことしかできない。
 4カ月間の将軍空位期間を経た同年12月、慶喜は15代将軍に就く。ところが慶喜を高く評価していた孝明帝が、慶喜の将軍就任から、わずか20日後に崩御してしまう。これにより庇護(ひご)者を失った慶喜は、反幕勢力を抑え込めなくなる。

 致し方なく慶喜は、長州藩に対して寛大な措置を求める松平春嶽や伊達宗城らと妥協したため、今度は、対長州強硬論を唱える会津藩との関係が険悪になってしまう。
 一方、長らく公武合体論を唱えてきた薩摩藩だが、この頃になると、長州藩と手を組んで秘密裏に倒幕計画を進めていた。
 こうした最中、土佐藩の後藤象二郎が慶喜に大政奉還を勧める。立場がなくなっていた慶喜は、この話に乗った。慶喜としては、あえて政権を放り出すことで、徳川家の領土と権益を守るつもりでいた。
 慶喜は大政奉還までしたのだから、新政府の中心の座(議定(ぎじょう)職)に就くことは当然だと思っていた。ところが薩摩藩の大久保利通や西郷隆盛は、王政復古のクーデターを実行し、慶喜に辞官納地を申し渡す。慶喜はいきり立つ会津藩士らをなだめて大坂城に移ったので、双方の武力衝突はなくなったかに見えた。
 ところが江戸から急使が入り、庄内藩による薩摩藩邸焼き打ちが伝えられた。これにより戦わざるを得なくなった慶喜は、「討薩表」を掲げた数千の兵と共に京を目指すことになった。鳥羽・伏見の戦いである。
 だが幕府軍はこの戦いに敗れ、慶喜は江戸へ逃げ帰って謹慎恭順を貫くことになる。
 結局、430万石あった徳川家の家禄は、駿河70万石に減らされ、6万人いた幕臣とその家族の8割方が食えなくなった。その原因のすべてを慶喜に帰すのは酷だが、幕府の舵(かじ)取りを担った者として、相応の責任があるのは言うまでもない。

 それでは慶喜は、なぜ敗者となったのか。
 慶喜という男は根っからの利己主義者で、何かを判断する時、いつも自分の立場というものを考えてしまう。つまり大局観や自己犠牲の気持ちが欠如しており、天下国家という観点に立てないのだ。その上、「いらち(関西弁でせっかち)」なため、相手の動きを見てから動くといった老獪(ろうかい)さがなく、小知恵を働かせた策動に終始しているうちに、周囲の信望を失っていくという悪循環に陥ってしまうのだ。
画像
晩年の徳川慶喜(国立国会図書館蔵)

 明治5(1872)年、従四位に叙されて復権した慶喜は、何不自由ない隠居生活を満喫し、馬齢を重ねた末、大正2(1913)年、77歳という歴代将軍最高齢で死去する。
 その長い晩年において、慶喜は趣味の狩猟や写真撮影を楽しむこと以外、何もしなかった。徳川家のために死んでいった者たちの墓に花の一つを手向けるでもなく、自費で碑を建てるでもなく、維新の犠牲者たちを追悼する気など微塵(みじん)もなかった。史談会に招かれても言い訳や自己弁護に終始し、自伝でも史実を語らず、己の名誉を守ることに徹した。

 慶喜は失敗を自責で考えることをせず、己のために死んでいった者たちを追悼する姿勢も見せず、結局、生涯を小才子のまま終わらせたのだ。
 次回「織田信長」は1月28日に掲載します。
【プロフィル】伊東潤
 いとう・じゅん 昭和35年、横浜市生まれ。早稲田大卒業後、外資系IT企業勤務、コンサルタントなどを経て、平成19年に「武田家滅亡」で文壇デビュー。25年、「巨鯨の海」で山田風太郎賞受賞。
                   ◇
 本連載は月刊「J−novel」(実業之日本社)に掲載された作品のダイジェスト版です。

*2016.01.07 産経新聞より
(http://www.sankei.com/life/news/160107/lif1601070014-n1.html)

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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
晩年なだからしょうがないけど、もっとイケメンなのかと思った。
井出浩司
2016/05/22 05:10

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