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zoom RSS 【敗者烈伝】〜豊臣秀頼(上)家康も一目置いた聡明さ 作家・伊東潤

<<   作成日時 : 2016/04/24 12:58   >>

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 産経新聞で作家の伊東潤さんが日本史の敗者に光を当てる素晴らしい歴史エッセーを連載しています。

 文禄2(1593)年8月、多くの人々の祝福を受け、一人の赤子が生まれた。その赤子の名は拾丸。後の豊臣秀頼である。
 秀頼の父は太閤秀吉、母は側室の浅井氏(本名・茶々、通称・淀殿)で、兄の鶴松が早世しているため、二人にとって唯一の子となった。
画像
玉造稲荷神社に建つ豊臣秀頼像

 秀頼が生まれた時、豊臣家の後継予定者は秀吉の甥(おい)の秀次だった。秀次は永禄11(1568)年生まれで、秀吉との年齢差は31、秀頼との差は25もある。つまり秀吉と秀頼の年齢差56を勘案すれば、中継ぎとして絶好の位置にあった。
 秀次は養父である秀吉から、すでに関白職を譲られており、後継指名もされていた。これにより秀吉は太閤となり、豊臣家による太閤・関白両殿下体制が確立された。ところが実子の秀頼ができたことで、秀吉に疑心が生まれる。自分の死後、秀次によって秀頼が殺されるのではないかと危惧し始めたのだ。
 それなら、秀次から秀頼に関白職を譲らせればいいものだが、関白は天皇を補佐する執政のため、16歳以下で就いた者はいない。豊臣家にとっても赤子の関白では、朝廷工作がうまくいかなくなる恐れがある。それゆえ秀吉は秀次を関白のままとし、秀頼(生後2カ月)と秀次の娘(7歳)を婚約させ、秀次の後継者に秀頼を立ててもらおうとした。
 しかし急速に老耄(ろうもう)が進んだ秀吉は、疑心暗鬼に取りつかれ、秀次を除くことにした。確かに、秀次が関白である間に自分が死んでしまえば、秀頼の立場や生命が守られる保証はない。
 結局、秀吉は秀次にありもしない罪を負わせ、高野山に追放し、秀頼が成長するまで、飼い殺しにしようとした。自害を命じなかったのは、太閤・関白両職を豊臣家で独占するため、秀頼が16になるまで生きていてもらわねばならなかったからである。しかし秀次は、あてつけのように自害してしまった。

 これにより関白職を朝廷に返上せざるを得なくなった秀吉は、己の政権構想に狂いが生じたことに激怒し、秀次の妻子を皆殺しにする。
 文禄5年5月、秀吉は4歳の秀頼を参内させ、従五位下左近衛権中将(さこのえごんのちゅうじょう)に任官させた。さらに秀頼の傅役(もりやく)として前田利家を取り立て、仮想敵である徳川家康の対抗馬に仕立て上げた。
 慶長3(1598)年8月、秀頼が6歳の時、秀吉は帰らぬ人となるが、この時点で朝鮮出兵による国内の疲弊と、中継ぎ後継者の不在から、豊臣政権の基盤は揺らいでいた。
 一方、天下簒奪(さんだつ)を狙う家康は、諸大名家との間に婚姻関係を結ぶなど、秀吉の遺言で禁じられていたことを平然と行い、豊臣家の権威に揺さぶりをかけた。
 慶長4年正月、石田三成ら奉行衆による家康の弾劾が始まる。三成は利家の力を借り、現状維持を図ろうとするが、同年閏(うるう)3月の利家の死によって、そのパワーバランスは一気に崩れる。
 利家死去後、三成に恨みを持つ豊臣家武断派大名たちは三成を襲撃し、けんか両成敗の掟(おきて)から三成を失脚させてしまう。これにより家康は、豊臣政権を牛耳ることに成功する。
 それでも新たな政治秩序を築くには、何らかの契機が必要である。家康は上杉景勝に難癖をつけて謀反を捏造(ねつぞう)、上杉討伐の兵を挙げる。ここから家康の東国への出陣、その留守を突く三成の挙兵、そして関ケ原の戦いへと一気に進んでいく。
 秀頼に関する一級史料は極めて少なく、その言説もほとんど伝わっていない。しかし雄渾(ゆうこん)で勢いのある書風、自筆書状での流麗な文字と破綻のない文意、細部まで行き届いた書札礼(しょさつれい)(書簡の礼法)などを鑑みると、常識をわきまえた優秀な人物像が浮かんでくる。

 慶長16年に18歳の秀頼と家康は、二条城で会見をするが、それが終わった後、家康は「秀頼は賢き人なり」と言ったとされる(『明良洪範(めいりょうこうはん)』)。ここで秀頼が虚(うつ)けを装えば、家康は、さらに踏み込んだ行動を起こしたはずだ。しかし有能さをアピールしておけば、それが抑止力となり、家康は慎重になる。何と言っても時間を味方に付けているのは、秀頼なのだ。
【用語解説】豊臣秀頼
 とよとみ・ひでより 文禄2(1593)年、天下人となった豊臣秀吉の次男として生まれる。母は淀殿。幼少にして秀吉の後継者とされたが、関ケ原の戦いの後、徳川家康が征夷大将軍となると豊臣家が一大名に転落。徳川秀忠の娘、千姫と結婚したが、方広寺鐘銘事件によって徳川家との間に大坂冬の陣が勃発。いったん講和したが慶長20(1615)年に大坂夏の陣が生じ、大坂城の落城時に自害した。
【プロフィル】伊東潤
 いとう・じゅん 昭和35年、横浜市生まれ。早稲田大卒業後、外資系IT企業勤務、コンサルタントなどを経て、平成19年に「武田家滅亡」で文壇デビュー。25年、「巨鯨の海」で山田風太郎賞受賞。
 本連載は月刊「J−novel」(実業之日本社)に掲載された作品のダイジェスト版です。

*2015.12.03 産経新聞より
(http://www.sankei.com/life/news/151203/lif1512030012-n1.html)

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コメント(1件)

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僕もファンですよ。この人が10年と言わず5年早く生まれてたら・・・。と思います。
井出浩司
2016/04/24 16:25

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