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zoom RSS 【敗者烈伝】作家・伊東潤 源義経(下)武士たちの望みを見誤る

<<   作成日時 : 2016/04/03 21:07   >>

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 産経新聞で作家の伊東潤さんが日本史の敗者に光を当てる素晴らしい歴史エッセーを連載しています。

 源範頼の進軍停滞に業を煮やした頼朝は、元暦2(1185)年2月、義経を許して西国へと向かわせた。ここからの義経の手際は見事である。屋島の戦いを得意の奇襲戦法で勝った義経は、3月24日には、壇ノ浦で平氏を滅ぼした。この一連の戦いで、範頼軍には大した出番がなく、まさに義経の独り舞台だった。そうなると、義経の成功を妬(ねた)ましく思う者も出てくる。
 4月、活躍の場をほとんど与えられなかった御家人の梶原景時(かげとき)は、いち早く鎌倉に戻ると、義経の行動が「安徳帝と三種の神器を保護してから平氏を殲滅(せんめつ)せよ」という頼朝の命令に背くものだったと讒言(ざんげん)した。現に安徳帝は入水(じゅすい)して、三種の神器のうち、神剣はついに見つからなかった。
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関門海峡の源義経像と平知盛像=山口県下関市

 4月24日、義経は都に凱旋(がいせん)する。ところが鎌倉では、義経を罪人として処断することに決していた。
 5月、義経は宗盛ら平氏の捕虜を引き連れて鎌倉に戻ろうとするが、頼朝は義経に、腰越(こしごえ)にとどまるよう伝えてきた。ここで義経は、有名な「腰越状」を書くことになるのだが、この時の義経が、頼朝に慈悲を請うような書状を書くはずがなく、「腰越状」は後世の偽作とみていい。
 6月、頼朝は、義経に宗盛以下を引き連れて都に上るよう命じる。いざ京に戻るとなったとき、義経は「関東に恨みのある者は、ついてこい」と言い放ったというが、このあたりが、本音だったのではないだろうか。
 頼朝の命に従い、その途次に宗盛以下平氏一門の生き残りを斬り、都に戻った義経は、院近臣勢力や叔父の行家(ゆきいえ)と結び、頼朝に対抗していくつもりでいた。おそらく見通しとしては、畿内と西国に勢力圏を確立し、多くの兵を養ってから、奥州の藤原秀衡(ひでひら)とともに鎌倉を挟撃し、頼朝政権を葬り去るつもりでいたのだろう。

 文治元(1185)年8月、義経は伊予守に任官した。朝廷は頼朝と義経を両天秤(りょうてんびん)に掛けていたので、それを見透かした義経は、後白河院に「頼朝追討」の院宣(いんぜん)を奏請し、10月、それを下賜(かし)された。
 義経の勝算は、一に院宣、二に己の武名、三に奥州藤原氏の支援である。ところが義経に味方する者は皆無に近かった。
 その理由としては、せっかく武家主導の政権が樹立されて所領をもらったのに、それを覆すようなことはしたくないというのが一つ。頼朝から畿内周辺に所領をもらった御家人たちが、その恩に報いようとしたのが一つ、また、義経の政権ビジョンが見えていないのが一つである。義経の見通しは甘かったのだ。
 これを見極めた頼朝も、ようやく重い腰を上げ、義経追討軍を編成して都に向かった。
 この一報を聞いた後白河院は、頼朝に擦り寄り始める一方、義経を九州の地頭に任命し、西国に向かわせようとする。
 11月、義経軍は西国へと落ち延びようとするが、瀬戸内海で暴風に遭って船団は四散、壊滅的な打撃を受けてしまう。
 この情報が都に入ると、朝廷は一斉に頼朝になびいたが、時すでに遅く、続々と入京する軍勢に恐れをなした後白河院は、頼朝の求める守護・地頭の全国への設置を認めざるを得なくなる。
 文治3(1187)年の春頃、義経は奥州藤原氏の許(もと)に転がり込み、秀衡の庇護(ひご)を受けるが、10月、肝心の秀衡が没してしまう。その跡を継いだ泰衡(やすひら)は、頼朝に逆らうつもりはなく、文治5年閏(うるう)4月、義経を衣川(ころもがわ)の館に襲い、自害に追い込んだ。
 それでは義経の敗因は、どこにあったのか。

 多分に感情的な義経は、頼朝の仕打ちに怒っては、その場その場で感情の赴くままに行動してきた。義経には一貫した考え方がなく、思いつきで対症療法的なのである。その一方、頼朝には明確な政権構想があり、大江広元や三善(みよし)康信といったブレーンをそろえていた。この違いが求心力の差になって表れたのだ。
 それまで浮草のような存在だった武士たちにとって、土地所有のお墨付きを与えてくれた頼朝は、何よりもありがたく、それを永続し得る鎌倉の武家政権に、依存し始めていたのである。
 「武勇と仁義においては後代の佳名(かめい)をのこすものか。歎美(たんび)すべし、歎美すべし」(『玉葉(ぎょくよう)』)と謳(うた)われた好漢義経も、天才的軍略と仁慈に厚い人柄だけでは、武士たちの心を動かすことはできなかった。「一所懸命」という言葉があるほど、武士たちが土地所有とその維持に命を張っていたこの時代、たとえ英雄児とはいえ、生き残るのは苛酷だった。
 次回「豊臣秀頼」は11月26日に掲載します。
【プロフィル】伊東潤
 いとう・じゅん 昭和35年、横浜市生まれ。早稲田大卒業後、外資系IT企業勤務、コンサルタントなどを経て、平成19年に「武田家滅亡」で文壇デビュー。25年、「巨鯨の海」で山田風太郎賞受賞。
 本連載は月刊「J−novel」(実業之日本社)に掲載された作品のダイジェスト版です。

*2015.11.05 産経新聞より
(http://www.sankei.com/life/news/151105/lif1511050011-n1.html)

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