モノトーンの肖像画

アクセスカウンタ

zoom RSS 【敗者烈伝】作家・伊東潤 源義経(上)武功挙げる中で兄と確執

<<   作成日時 : 2016/04/02 22:53   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 3

 産経新聞で作家の伊東潤さんが日本史の敗者に光を当てる素晴らしい歴史エッセーを連載しています。

 源義経は平治元(1159)年、義朝の九男として生まれた。幼名を牛若丸、仮名(けみょう)を九郎という。12歳上の異母兄に頼朝がいる。
 平治の乱で父の義朝が敗れ、逃走中に殺されたことにより、彼ら兄弟は不遇の少年時代を過ごす羽目になる。頼朝は囚(とら)われの身となって伊豆に流され、数えで2歳だった義経は、京都北郊の鞍馬(くらま)寺に預けられた。
 承安4(1174)年3月、義経は奥州一円を制する藤原秀衡(ひでひら)の庇護(ひご)を求めて旅立つ。それから治承4(1180)年までの6年間、義経は秀衡の薫陶(くんとう)を受けて成長する。同年10月、義経は頼朝の挙兵を聞いて関東へと向かい、2人は劇的な対面を果たした。
 翌治承5年閏(うるう)2月、平清盛が没し、平氏政権に翳(かげ)りが見えてきた。後白河院は秀衡を陸奥守に任じて頼朝を討伐させることにし、養和元(1181)年8月、その勅命を下した。結局、秀衡は動かないのだが、これにより、かつて秀衡の許(もと)にいた義経の立場は微妙になる。
 寿永2(1183)年、頼朝とは別に平氏と戦っていた木曽義仲は、北陸道を驀進(ばくしん)し、5月には倶利伽羅(くりから)峠で平氏軍を撃破して一気に都に迫った。

 一方、平氏の総帥である宗盛(むねもり)は、京都での防戦をあきらめ、安徳帝を奉じて西国に落ちる。これにより義仲は入京を果たすが、山育ちの義仲とその兵の傍若無人な振る舞いにより、朝廷や公家との関係が悪化する。そうなれば自然、頼朝待望論が出てくる。
 こうした声を受け、義仲を討つと決した頼朝は、まず義経を都に派遣する。「僅(わず)かに兵力五、六百」(『玉葉(ぎょくよう)』)というので、これは討伐軍というよりも先遣隊である。義経は伊勢を経て近江にとどまり、頼朝の指示を待つ。
 一方、朝廷が頼朝を呼び寄せようとしていることに怒った義仲は、法皇の御所を焼き払い、院近臣40人余の解官(げかん)と所領没収を断行して朝敵となる。
 寿永3年1月初旬、頼朝の弟である範頼(のりより)に率いられた主力軍が到着し、義経の率いる部隊と合流、2人は義仲を追い詰めた末、近江の粟津で討ち取った。
 1月末、返す刀で義経と範頼は平氏追討のために西に向かう。
 源氏の内訌(ないこう)により息を吹き返していた平氏は、かつて清盛が都にした摂津福原に拠点を築き始めていた。背後に山が迫り、眼前に瀬戸内海が開ける福原一ノ谷の陣は、要害堅固で攻め難い地である。

 ところが義経は、人馬は下りられぬと言われた断崖絶壁の鵯越(ひよどりごえ)から、逆落(さかお)としに平氏陣まで駆け下り、大勝利をものにする。
 ところが元暦元(1184)年5月、頼朝は範頼ら指揮官3人の国司任官を奏請(そうせい)し、6月に勅許(ちょっきょ)を得たが、功第一の義経を無視したため、双方の溝は深まっていく。
 8月、義経は頼朝の許可を得ずして検非違使(けびいし)左衛門少尉(さえもんのしょうじょう)に任官し、双方の亀裂は決定的になる。御家人の任官叙位は、すべて頼朝の推挙によるという鉄則を弟が破ったことに、頼朝は激怒したのだ。
 なぜ義経は、頼朝の承諾を得ずして任官したのか。義経は、頼朝が怒ることを承知の上で受けたと、私は見ている。つまり、これにより義経は平氏追討軍から外され、平氏追討使(総指揮官)には、範頼が任命される。ところが範頼は凡庸なので、御家人たちを統御できず、西国で巻き返しに転じている平氏を討伐できない。そうなれば頼朝は、義経を頼らざるを得なくなる、と読んだのではないか。

 9月、都を発(た)った範頼は、周防・長門へと進むが、瀬戸内海の制海権を平氏に握られており、補給面で苦戦する。陸路だけでは、兵糧や馬を補給しきれないのだ。11月から12月にかけて、範頼は再三にわたり頼朝に窮状を訴えている。(次週に続く)
【用語解説】源義経
 みなもとのよしつね 平治元(1159)年、源義朝の九男として生まれ、父の敗死後は奥州の藤原秀衡のもとに身を寄せる。兄・頼朝の挙兵に呼応して合流し、頼朝の代理を任せられ木曽義仲を破る。平氏追討戦では一ノ谷、屋島、壇ノ浦と勝利を重ね、平氏を滅亡させる。戦後は頼朝との対立を深め、奥州藤原氏を頼るが、文治5(1189)年に秀衡の息子、泰衡に急襲され自害した。
【プロフィル】伊東潤
 いとう・じゅん 昭和35年、横浜市生まれ。早稲田大卒業後、外資系IT企業勤務、コンサルタントなどを経て、平成19年に「武田家滅亡」で文壇デビュー。25年、「巨鯨の海」で山田風太郎賞受賞。
 本連載は月刊「J−novel」(実業之日本社)に掲載された作品のダイジェスト版です。


*2015.10.29 産経新聞より
(http://www.sankei.com/life/news/151029/lif1510290010-n1.html)

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(3件)

内 容 ニックネーム/日時
範頼もお兄さんい殺されちゃうんだけど、こっちは有名になってないよね。義経だけ歌舞伎なんかで有名。地味な人だったんだろうね。
井出浩司
2016/04/03 08:16
蒲冠者、地味ですね。ただ生存説があって、幽閉先の修善寺から埼玉北本市石戸の東光寺まで逃げてきたというもの。
蒲桜という名の桜が有名です。
管理人
2016/04/03 13:54
仲のいい兄弟っていうのもそうそうそうないと思うよ。
井出浩司
2016/04/03 21:03

コメントする help

ニックネーム
URL(任意)
本 文

天気予報


コアラのマーチ


AKB48ブログ集

© AKB48ブログ集
【敗者烈伝】作家・伊東潤 源義経(上)武功挙げる中で兄と確執 モノトーンの肖像画/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる