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zoom RSS 【敗者烈伝】〜蘇我馬子(下) 「成功モデル」踏襲で一族滅亡 作家・伊東潤

<<   作成日時 : 2016/03/13 15:41   >>

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 産経新聞で作家の伊東潤さんが日本史の敗者に光を当てる素晴らしい歴史エッセーを連載しています。

 推古帝の最末期に登場した蘇我蝦夷(えみし)は、大臣(おおおみ)の座に就いてから約2年後の推古帝36(628)年、推古帝の崩御という事態に直面する。
 皇位継承者の選定にあたり、蝦夷は推古帝の遺勅(いちょく)として、非蘇我氏系の舒明(じょめい)帝を即位させた。対立候補には、蘇我氏系で厩戸皇子(うまやどのみこ)の息子にあたる山背大兄王(やましろのおおえのおう)が上がっており、一見、蝦夷の判断は奇妙に思われる。しかし蝦夷には、山背大兄王を即位させてしまうと、反蘇我氏勢力の先鋭化を招くという危惧があり、あえて舒明帝を即位させたのではないだろうか。おそらく、舒明帝の次に即位させるという線で、山背大兄王と話をつけていたと考えられる。
 蝦夷は、強引な馬子(うまこ)とは対照的な調整家タイプだった。しかし、そうした妥協的な姿勢が政敵の存在を容認し、その勢力を扶植(ふしょく)させていく。
 舒明帝13(641)年、舒明帝が崩御する。その後継として、蝦夷は蘇我氏系ではない皇極帝(こうぎょく)(女性)を即位させた。山背大兄王は不満を持ったはずだが、蝦夷が求めているのは傀儡(かいらい)の天皇であり、聡明(そうめい)な天皇は要らないのだ。

 その後、蝦夷は隠居し、蘇我氏は入鹿(いるか)へと引き継がれていく。実は、皇極帝を即位させたのは入鹿で、蝦夷は、それに反対していたということも考えられる。蘇我氏の権勢を再び強めるべく、入鹿は父の蝦夷よりも祖父の馬子を範にしていく。
 皇極帝2(643)年、入鹿は山背大兄王を襲撃し、自殺に追い込んだ。『日本書紀』によると、この一件を聞いた蝦夷は、「入鹿は実に愚かで、横暴な悪事ばかりおこなったものだ。おまえ(入鹿のこと)の生命もまた危ないのではないか」と言って嘆いたという。穏健派の蝦夷は、やはり入鹿の強硬路線に反対していたのだ。結果論かもしれないが、蝦夷の路線を入鹿が踏襲していれば、蘇我氏の権勢は緩やかに衰微し、蘇我本宗家は、朝廷を取り巻く廷臣(ていしん)の一つとして血脈を枝分かれさせ、後の藤原氏のように長く続いた可能性がある。
 入鹿が擁立した皇極帝は、自分の血統に皇位を継がせるべく、まずは自分が即位するという方法を取った。つまり入鹿は皇極帝と結託し、山背大兄王を除いたとも考えられる。

 馬子の時代をよみがえらせた入鹿だが、独裁に反発は付き物である。蘇我氏の天下を苦々しく思っていた者の一人に中臣鎌足(なかとみのかまたり)がいた。
 かねてから蘇我氏の専横に憤っていた鎌足は、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)こそ次代を担う皇族と信じ、接近を図っていた。法興寺(飛鳥寺)で行われた打毬(うちまり)の会で、勢い余って飛んでしまった中大兄皇子の沓(くつ)を拾い、それをきっかけとして皇子と親しくなった鎌足は、クーデター計画を打ち明けて協力を取り付ける。
画像

月岡芳年の錦絵「大日本名将鑑」で描かれた蘇我入鹿の暗殺=明治12年(東京都立図書館蔵)

 皇極帝4年6月、三韓(新羅(しらぎ)、百済(くだら)、高句麗(こうくり))の使者が来日し、3国の進貢(しんこう)の儀式が、内裏の大極殿(だいごくでん)で行われた。この儀式に出ている間だけ、入鹿の周囲を固めている警護の兵はいなくなる。その隙を狙い、鎌足は自らの手で入鹿を殺した。続いて甘樫丘(あまかしのおか)にある蘇我氏の豪壮な第(てい)(邸宅)を攻め、蝦夷をも自害させることで、鎌足はクーデターを成功させる。これが「大化の改新」の端緒となる「乙巳(いっし)の変」である。

 蘇我氏は栄華の頂点から突然、滅亡の奈落へと突き落とされた。それでは入鹿は、なぜ敗者となってしまったのか。
 天賦の才に恵まれ、馬子の時代の権力を取り戻そうとした入鹿は、馬子に倣いすぎたのだ。現代でも創業社長や躍進の担い手となった社長の方針を唯々諾々と受け継ぐことで、時代の変化についていけなくなってしまう企業が多々あるが、まさに入鹿は、この病に取りつかれたといえる。天皇制が確立することで組織が肥大化し、利害関係者が増えれば、独裁が極めて難しくなることに気づかなかったのだ。
 入鹿は馬子でなく蝦夷に倣うべきだった。反対派の官位を上げたり、婚姻によって姻戚関係を結んだりして、懐柔しておく必要があったのだ。それゆえ入鹿が敗者となった原因は、馬子にあったといえる。
 かくして蘇我本宗家は滅亡した。今日では、馬子の墓と伝えられる石舞台古墳が、飛鳥の地に残るだけである。
 次回「平将門」は10月1日に掲載します。
【プロフィル】伊東潤
 いとう・じゅん昭和35年、横浜市生まれ。早稲田大卒業後、外資系IT企業勤務、コンサルタントなどを経て、平成19年に「武田家滅亡」で文壇デビュー。25年、「巨鯨の海」で山田風太郎賞受賞。
                   ◇
 本連載は月刊「J−novel」(実業之日本社)に掲載された作品のダイジェスト版です。


*2015.09.10 産経新聞より
(http://www.sankei.com/life/news/150910/lif1509100019-n1.html)

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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
白村江の戦い、とかこのころから外国抜きでは政治動いてないんですね。
井出浩司
2016/03/13 18:47

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