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zoom RSS 【敗者烈伝】〜桐野利秋(下) 西南戦争の実質的総指揮官に 作家・伊東潤

<<   作成日時 : 2016/01/10 16:39   >>

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 産経新聞で作家の伊東潤さんが日本史の敗者に光を当てる素晴らしい歴史エッセーを連載しています。

 明治9(1876)年12月4日、桐野利秋の家で開かれた幹部集会において、珍しく西郷隆盛が激高し、「彼(大久保利通)の肉を食ふも飽かざるなり」と言うと、桐野は「二、三の大臣を討たば政府は瓦解(がかい)すべし。亦(また)奸臣を討て民の疾苦(しっく)を救ふは是(これ)丈夫の本意なり」と抱負を述べ、徐々に決起へと傾いていく。
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桐野利秋(北海道大学付属図書館蔵)

 結局、この時は西郷の「時機を見るべし」という言葉で自重することになったが、西郷が憤激しているという噂は、私学校党の若者たちを大いに刺激し、鹿児島は興奮のるつぼと化した。幹部の一人である村田新八は、「(私学校党の形勢は)、あたかも四斗樽(しとだる)に水をいっぱいにし、腐れ縄で括(くく)っているようなありさまで、西郷や自分の力でも抑えることはできない。いずれ破裂は免れ得まい」と語っている。
 こうした状況下で、大久保は火に油を注ぐようなことをする。鹿児島出身の警察官たち60名余を帰郷させた上、密偵として私学校党の内情を探らせると同時に、鹿児島に備蓄されていた政府所有の武器弾薬を回収しようとしたのだ。本来、これらの武器弾薬は、旧薩摩藩のものである。これを聞いた私学校党の若者らは激高し、弾薬庫を襲撃して武器弾薬を奪ってしまう。

 この時、西郷は狩猟に出ており、桐野は吉野台地で開墾に精を出していた。つまり2人とも、暴発が起こるなど考えてもおらず、虚を突かれる格好となった。
 それだけならまだしも、密偵の疑いで捕らえられた中原尚雄(なおお)少警部が、拷問の末、「西郷と刺し違える覚悟で来た」と言ったため、大久保らが、西郷暗殺を命じていたことが明らかになる(実際は定かでない)。
 明治10年2月5日に開かれた幹部たちの集会において、桐野が「もはや矢は弦(つる)を放たれ、剣が鞘(さや)から抜かれたも同じであり、断の一字あるのみ」と言うと、西郷はいかなる心境からか、「おいの体は皆に預けもんそ」と決断を幹部たちに委ねた。もはや西郷でも、挙兵(率兵(そっぺい)上京)は止められないと思ったのだろう。
 かくして西南戦争が始まった。軍事作戦の立案と指揮は、陸軍少将だった桐野が執ることになった。「西南戦争は桐野の戦争」と言われるゆえんがここにある。
 薩軍は北上を開始、熊本鎮台のある熊本城を囲んだ。この時、薩軍内は楽観論に包まれていた。というのも西郷は、いまだ現役の陸軍大将であり、その威徳を知る薩摩人が熊本鎮台には多くおり、戦わずして城を開くと思ったのだ。

 ところが鎮台軍は、熊本城に拠(よ)って激しい抵抗を見せる。どうしても城を落とせずにいるところに、政府軍が福岡に上陸し、主戦場は北方の田原坂(たばるざか)に移動していく。ここで薩軍は凄(すさ)まじい戦いぶりを見せるが、最後には力負けし、九州各地を転々としていくことになる。
 結局、各地で敗れて衰勢に陥った薩軍は、鹿児島に戻って城山に籠城した。しかし最終的に政府軍の前に屈し、西郷も桐野も死を迎える。
 西南戦争の詳細経緯については、19日に発売される拙著『武士の碑(いしぶみ)』(PHP研究所)を読んでいただきたい。
 開戦当初、戦力的には政府軍と見劣りせず、しかも西郷という精神的支柱があったにもかかわらず、薩軍はなぜ敗れたのだろう。そこには5つの敗因があった。
 ▽西郷の名を過信していた(西郷が起(た)てば、各地の士族も起つと思っていた)▽徴募兵(農兵)中心の政府軍、とくに熊本鎮台兵を侮っていた▽前装銃を主力にするなど装備が旧式な上、中盤戦以降、弾丸が欠乏した▽兵站(へいたん)線の確保や補給体制に、さほど気を配らなかった▽政府の海軍力(海上輸送力と沿岸戦での砲力)を侮っていた。

 かくして桐野利秋は、西郷と共(とも)に城山に散った。
 いよいよ最後となった時、西郷だけでも投降させようという意見が出たが、桐野はこれに猛然と反対し、「潔く散華されてこそ西郷(せいご)先生(せんせ)である」と言ったとされる。桐野は、西郷を「日本の西郷隆盛」ではなく「おいたちの西郷先生」としておきたかったのだ。
 城山の戦いで西郷が死を選んだ後も、桐野は自ら銃を取って堡塁(ほうるい)で戦い続け、最後は眉間(みけん)を撃ち抜かれて死んだという。享年は40だった。
 その遺骸からは、陸軍時代、軍服に付けていたものと同じ香水が匂っていたという。

 次回「北条氏政」は7月9日に掲載します。

【プロフィル】伊東潤
 いとう・じゅん 昭和35年、横浜市生まれ。早稲田大卒業後、外資系IT企業勤務、コンサルタントなどを経て、平成19年に「武田家滅亡」で文壇デビュー。25年、「巨鯨の海」で山田風太郎賞受賞。

 ※本連載の完全版は月刊「J−novel」(実業之日本社)で連載中です。

*2015.06.18 産経新聞より
(http://www.sankei.com/life/news/150618/lif1506180011-n1.html)

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司馬遼太郎読んでると、桐野がいなければ西南戦争まで行かなかったかもしれない、と思えてくる。
井出浩司
2016/01/10 22:33

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