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zoom RSS 【敗者烈伝】〜藤原頼長(上) 武士の世を招いた「悪左府」 作家・伊東潤

<<   作成日時 : 2016/01/02 14:28   >>

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 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

 産経新聞で作家の伊東潤さんが日本史の敗者に光を当てる素晴らしい歴史エッセーを連載しています。

 「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」(この世は、自分のためにあると思うほど満ち足りている。満月の欠けることがないのと同じように)
 これは、藤原摂関家を隆盛に導いた藤原道長が、その全盛期に詠んだ歌である。
 この時代の人々の「この世」とは、広くは平安京内、狭くは宮廷内のことだったというが、その平和で清浄な平安京も、道長の死後、「穢(けが)れ」に満ちた「化外(けがい)の地」との垣根が取り払われつつあった。武士階級の勃興である。
 その経緯は、拙著『武士の王・平清盛』(洋泉社)に詳しく書いたが、一言で述べると、皇族や公家は、武力という暴力装置を手にすることにより、権力闘争を優位に運べることに気づいたのである。これまで政治的駆け引きや賄賂(わいろ)によって、高い官職や旨(うま)みのある国司の職を得てきた公家たちは、思い通りに行かない場合は、武力を使うことも辞さないようになっていく。しかし彼らは、暴力装置が意思や欲望を持ち、彼らの言いなりにならなくなるとまでは思っていなかった。

 武士階級の勃興と軌を一にして、極めて狭かった「この世」、すなわち天下の概念は、畿内へ、さらに日本列島全体へと広がっていく。
 こうした時代の流れの中で、初めて武力によって決着された権力闘争こそ保元の乱であり、その主役こそ、「悪左府(あくさふ)」こと藤原頼長である。
画像
藤原頼長=「公家列影図」から

 道長から数えて5代目にあたる忠実(ただざね)の次男として、頼長は保安(ほうあん)元(1120)年に生まれた。頼長には、忠通(ただみち)という23歳も年上の別腹兄(べつばらけい)がいた。しかも忠通の母は貴顕(きけん)の家の生まれだが、頼長の母は忠実の家臣の娘なので、この点でも兄には敵(かな)わない。次男の上に母の出自も卑しいので、頼長には藤原氏の氏長者(家督)どころか、無位無官のまま生涯を終えることさえ考えられた。しかし頼長には抜群の強みがあった。異常なまでに優秀な頭脳と勤勉さである。

 頼長が少年の頃、忠通はすでに30歳近くに達していたが、摂関家の実権は依然、父の忠実が握っていた。忠実は聡明(そうめい)な頼長をかわいがり、忠通の嫡男が夭折(ようせつ)すると、頼長を忠通の養子に据えてしまう。これにより頼長に、摂政関白の地位と摂関家氏長者への道が開かれた。

 大治(だいじ)5(1130)年、元服に際して正五位下に叙された頼長は、その後も官位を上げていき、保延(ほうえん)2(1136)年には、17歳で内大臣にまで上り詰める。
 順風満帆な頼長の人生に暗雲が垂れ込め始めるのは、24歳になった康治(こうじ)2(1143)年のことである。47歳の忠通と正室の間に、男子(後の基実(もとざね))が生まれたのだ。
 基実に跡を継がせたくなった忠通は、自らの立場を生かして頼長を失脚させようとする。
 この時、忠通は近衛帝の外祖父になっており、近衛帝の后(きさき)の座をめぐり、すでに決定していた頼長の養女・多子(たし)に対抗し、近衛帝の母である美福門院の養女・呈子(ていし)を立てたのである。この入内(じゅだい)争いは、近衛帝の父の鳥羽院が、多子を皇后に、呈子を中宮に立てることで丸く収めたが、近衛帝は美福門院の勧めに従い、忠通の邸宅で呈子と過ごすようになり、忠通に凱歌(がいか)が上がった。これに焦った忠実は、摂政の座を頼長に譲るよう忠通を説得するが、忠通はこれを拒否、父弟と対立する道を選んだ。

 久安(きゅうあん)6(1150)年、遂(つい)に忠実は忠通を義絶し、氏長者の地位と摂関家の荘園を頼長に相続させた。しかし鳥羽院が、忠通の摂政解任要請には応じなかったため(摂政から関白に転任させたが)、忠通の地位と権力は保持された。致し方なく忠実は、頼長に内覧(ないらん)の宣旨(せんじ)を下してもらい、実質的な政治権力を握らせた。(次週に続く)

【用語解説】藤原頼長
 ふじわらのよりなが 保安元(1120)年、公卿(くぎょう)・藤原忠実の次男として生まれる。内大臣、左大臣を歴任し、藤原氏の氏長者となり執政の座に就くが、兄の関白・忠通と対立。政争の中で次第に孤立し、鳥羽法皇の信任を失って失脚。保元元(1156)年、崇徳上皇と結んで保元の乱を起こすが敗死した。
【プロフィル】伊東潤
 いとう・じゅん 昭和35年、横浜市生まれ。早稲田大卒業後、外資系IT企業勤務、コンサルタントなどを経て、平成19年に「武田家滅亡」で文壇デビュー。25年、「巨鯨の海」で山田風太郎賞受賞。
 ※本連載の完全版は月刊「J−novel」(実業之日本社)で連載中です。


*2015.05.14 産経新聞より
(http://www.sankei.com/life/news/150514/lif1505140033-n1.html)

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あけましておめでとうございます。今年は「真田幸村」ではないかな。個人的にはお兄さんが好きだけど。大泉洋がどうやるか、楽しみ。長澤まさみも久しぶりではないかな。
井出浩司
2016/01/02 22:14

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