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zoom RSS 【敗者烈伝】〜豊臣秀次(下) 読み違えた心理 老耄した独裁者ほど恐ろしいものはない 作家・伊東潤

<<   作成日時 : 2015/12/28 22:01   >>

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 産経新聞で作家の伊東潤さんが日本史の敗者に光を当てる素晴らしい歴史エッセーを連載しています。

 秀吉は天正17(1589)年、待望の男子を授かった。鶴松である。この鶴松が無事に育っていれば、豊臣政権は安定し、秀次も幸せな人生が送れたかもしれない。しかし鶴松は、天正19年、わずか3歳で夭折(ようせつ)してしまう。これにより関白職を譲られた24歳の秀次は、図らずも秀吉の後継者となった。
 秀吉としては致し方ない措置だったが、「鶴松の死によって幸運が舞い込んだ男」と、秀次を見ていたのは確かだろう。しかもこの後、官位叙任などの制度的な面で、形式的とはいえ、関白秀次の「御同意」を仰がねばならないことも多くなり、2人の関係はぎくしゃくし始める。しかし関白職を譲ったものの、秀吉は軍事指揮権を秀次に渡すつもりはなかった。秀次に与えたのは、訴訟決裁権や朝廷・公家との交渉権、そして豊臣政権の政庁である聚楽第(じゅらくだい)くらいである。
 この時、秀吉は秀次に訓戒を与えているが、そこには何ら秀次の無能を証明するものはない。逆に秀吉は、「茶の湯、鷹、女狂(めくる)い、秀吉のまねをするな」と卑下しており、養父としての温かみを感じるほどである。

 そんな折、秀吉の側室・淀殿が懐妊し、文禄2(1593)年8月、拾(ひろい)こと後の秀頼を産んだ。
 秀吉は57歳であり、天にも昇る気持ちだったろう。しかしその半面、秀頼の行く末を案じたはずである。秀吉は、関白職を秀次に譲ったことを後悔し始めていた。
 折しも秀次は持病の喘息(ぜんそく)が悪化し、同年9月、熱海で湯治していた。その帰途、生まれたばかりの秀頼と、1歳になる秀次の娘の婚約話が、秀吉から秀次に持ちかけられた。もちろん秀次はこれを受けたが、自らの立場が危うくなったと覚(さと)ったに違いない。邪魔者は消されるのが独裁政権の常である。
 ここで取るべき最上の策は、関白職を返上することである。しかし秀次は、そうしなかった。秀頼は幼児であり、いつ死ぬとも限らない。ここで関白職を返上してしまっては、秀頼が死んだからといって、さすがの秀吉も、秀次を元の地位に戻すことはしないだろう。となれば、弟の秀保(ひでやす)か、秀次と同じ秀吉養子の秀俊(後の小早川秀秋)を関白の座に就けるはずだが、弟や虚(うつ)け者にかしずくなど、秀次は真っ平だったに違いない。秀次は「しばし様子見」といった感じだったのだろうが、秀吉は、関白職を返上しない秀次に疑念を抱き始める。

 秀吉は秀頼の地位を固めるべく、文禄4年3月、3歳になったばかりの秀頼の叙爵を朝廷に奏請したり、大坂城と伏見城の大規模な拡張をしたりと、秀次にとっての不安材料をまき散らしていく。そうした最中の同年7月3日、聚楽第に乗り込んできた秀吉の奉行たちが、「謀反の疑いありや」と秀次に詰め寄った。秀次にとって寝耳に水であり、早速、誓詞を差し出し、身の潔白を訴えた。
 それから5日後の8日、秀吉から伏見へ来るよう命じられた秀次は、急ぎ駆け付けるが、秀吉は面談せず、一方的に高野山行きを命じてくる。伏見への呼び出しは、秀次を聚楽第にいる家臣団と切り離すために行われたのだ。この時点で、秀次は死を覚悟したと思われる。というのも以後、秀次が抗議したり哀訴したりした形跡がないからだ。それもまた、秀吉を怒らせる材料になったと思われる。
 13日には、秀次の宿老や直臣の処刑が行われ、15日、秀次は切腹を命じられた(自主的に切ったという説もある)。しかし不思議なことに、『御湯殿上日記(おゆどののうえのにっき)』7月16日条に「無実だと判明したので、斬首ではなく切腹となった」と明記されており、謀反は冤罪(えんざい)だったと分かる。それでは、冤罪とされたにもかかわらず切腹となったのはなぜだろう。吉川広家あて秀吉書状によると、「相届かざる子細」によって切腹を申し付けられたことになっている。
画像
京都市中京区の瑞泉寺にある豊臣秀次一族の墓石

 具体的なことは一切、分からないが、秀次暗愚説の元となった、正親町(おおぎまち)上皇の服喪期間中の狩りや、比叡山の寺内に入っての狩りを指すのではないかと言われている。要は千利休の賜死(しし)と同じで、さしたる理由などないのだ。
 秀次の死後、秀吉は秀次の妻子ら39人を処刑し、秀次の住処(すみか)だった聚楽第や八幡山城を徹底的に破却している。これこそ、老耄(ろうもう)した独裁者ほど恐ろしいものはないということの証左であろう。かくして秀次は、「殺生関白」として歴史の闇の中に消えていった。
 次回「藤原頼長」は5月14日に掲載します。
【プロフィル】伊東潤
 いとう・じゅん 昭和35年、横浜市生まれ。早稲田大卒業後、外資系IT企業勤務、コンサルタントなどを経て、平成19年に「武田家滅亡」で文壇デビュー。25年、「巨鯨の海」で山田風太郎賞受賞。
 ※本連載の完全版は月刊「J−novel」(実業之日本社)で連載中です。

*2015.04.16 産経新聞より
(http://www.sankei.com/life/news/150416/lif1504160023-n1.html)

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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
最上家とか、これがその後の関ケ原に影響したんではないか。
井出浩司
2015/12/29 07:06

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