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zoom RSS 【敗者烈伝】〜榎本武揚(下) 日本史上希にみる幸運な敗者=@身を救った「学識」 作家・伊東潤

<<   作成日時 : 2015/12/20 16:53   >>

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 産経新聞で作家の伊東潤さんが日本史の敗者に光を当てる素晴らしい歴史エッセーを連載しています。

 榎本武揚(たけあき)の自信の源は海軍力にあった。とくに旗艦の開陽丸は当代無敵の軍艦である。これを抑止力とし、さらに蝦夷地に眠る無限の資源を財源として、新政府に対抗し、その存在を認めさせようとしていたのだ。
 当初から榎本は、徳川幕藩体制を復活させようなどとは思っていない。榎本はロシアの南下を危惧し、旧幕臣に蝦夷地の開拓をさせ、有事には兵とするつもりでいた。屯田兵構想である。食い扶持(ぶち)を失った旧幕臣を養っていくには、それしかなかったからである。この時、430万石で6万人の家臣を養っていた徳川家は、駿府70万石に移封(いほう)されており、8割方の旧幕臣とその家族が困窮していた。それゆえ榎本は、自分たちを「屯田兵として蝦夷地に派遣してほしい」と、新政府に何度も嘆願している。
 慶応4(1868)年7月、徳川慶喜が謹慎先の水戸から駿府に移り、8月、徳川家の名跡(みょうせき)を継いだ家達(いえさと)が駿府入りするのを見届けた榎本は、いよいよ江戸からの脱走を決意する。

 実は、旧幕府艦隊が江戸湾に居座り続けたのには、もう一つの理由があった。かつて幕府が米国に発注していたストーンウォール号(以下、甲鉄)が、横浜港に回航されてきており、榎本は引き渡しを要求していたからである。甲鉄を入手できれば、旧幕府艦隊の優位は絶対的なものとなり、蝦夷地に行ってからも、腰を落ち着けて開拓にいそしめる。しかし米国は中立を宣言し、甲鉄を引き渡してくれない。その間も、奥羽越(おううえつ)列藩同盟から来援を請う使者が引きも切らず現れ、榎本は遂(つい)に甲鉄をあきらめざるを得なくなる。
 8月19日、榎本艦隊は仙台に向かうが、房総半島沖で暴風雨に見舞われ、艦隊は四散する。それでも何とか仙台藩領石巻に集結したものの、この時、すでに東北戊辰戦争は山場を越えていた。
 甲鉄も入手できず、列藩同盟も救えず、台風の季節に太平洋に出てしまい、多くの船を損傷させてしまったのは、榎本の判断ミスである。それでも、各地を転戦してきた諸隊と合流することができた。彼らは、大鳥圭介の伝習隊や土方(ひじかた)歳三の新選組をはじめとした歴戦の兵(つわもの)ばかりで、陸軍力として期待できる。榎本は彼らを乗せて蝦夷地へと向かった。

 明治元(1868)年10月、榎本らは蝦夷地に上陸、11月には新政府の箱館府軍と松前藩を追い払い、蝦夷地全土を占領する。しかし悲劇は目前に迫っていた。
 蝦夷地最後の抵抗勢力である松前藩を駆逐すべく、江差(えさし)に向かった開陽丸が、その沖合に停泊中、暴風雨に見舞われて座礁したのだ。開陽丸の喪失は実質的な戦力の低下よりも、海軍士官全体に精神的な打撃を与えた。
 そこで榎本は、かねてから考えていた計画を実行に移す。蝦夷共和国の設立である。榎本は、蝦夷政権を国際法上の国家として諸外国に認めてもらい、交戦権を持つ独立国として新政府に対抗しようとしたのだ。この時、わが国初の選挙(入れ札)により、榎本が総裁に選ばれた。
 この頃になって、ようやく準備の整った新政府は、蝦夷地に討伐軍を派遣する。
 明治2年4月、新政府軍は蝦夷地へ上陸、各地で激戦が展開される。蝦夷地の天険を頼み、土方らが奮戦するものの、最後には本拠の五稜郭も開城し、蝦夷共和国は、その短い生涯に終止符を打った。最大の敗因は、すぐには財源とならない蝦夷地の資源を、榎本が過大評価したことである。結局、開陽丸が健在でも、金のない蝦夷政府は諸外国から石炭を買えず、戦えなくなって降伏せざるを得なかったはずだ。

 この戦いの詳細経緯については、拙著『死んでたまるか』(新潮社)をお読みいただきたい。
 降伏後、榎本をはじめとした幹部は東京に送られ、収監された。この頃の榎本は死罪に処されると思っていたらしく、さかんに自らが学んできたことを書き残そうとした。しかし牢(ろう)の外では、直接の敵だった黒田清隆が助命に奔走し、明治5年、榎本らは赦免される。その後、請われて新政府に仕官した榎本は、5度も大臣を務めるなどして、明治政府の重鎮として活躍した。
画像
政府高官となった後年の榎本武揚 (国立国会図書館蔵)

 榎本の幸運は、その学識を惜しまれたことにある。明治政府の要人たちは志士上がりばかりで、科学や工学の知識など持ち合わせていない。榎本の持つ知識や技術が、新国家建設に必要とされたのだ。これほど幸運な敗者は、歴史上にもまれであろう。
 榎本の座右の銘は、「学びて後、足らざるを知る」だったという。やはり榎本は、根っからの学究の徒だったのだ。
 次回「豊臣秀次」は4月9日に掲載します。
【プロフィル】伊東潤
 いとう・じゅん 昭和35年、横浜市生まれ。早稲田大卒業後、外資系IT企業勤務、コンサルタントなどを経て、平成19年に「武田家滅亡」で文壇デビュー。25年、「巨鯨の海」で山田風太郎賞受賞。
 ※本連載の完全版は月刊「J−novel」(実業之日本社)で連載中です。

*2015.03.19 産経新聞より
(http://www.sankei.com/life/news/150319/lif1503190012-n1.html)

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コメント(1件)

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この人は、いつ、どこに、どの時代でも、それなりの人になってたと思います。
井出浩司
2015/12/20 18:18

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