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zoom RSS 【敗者烈伝】〜大鳥圭介(下)80年生き、最後まであきらめない男の凄まじさ

<<   作成日時 : 2015/07/18 22:02   >>

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 産経新聞で作家の伊東潤さんが日本史の敗者に光を当てる素晴らしい歴史エッセーを連載しています。

開明的で合理的な男が旧幕臣の意地

 大鳥圭介は学究の徒だった。しかも理工系の技術専門家である。こうした開明的で合理的な男が、旧幕臣の意地を見せるとは、誰も思わなかったに違いない。それはオランダに留学してきた榎本武揚(たけあき)や、黒船と最初に接触した中島三郎助らにも言えることで、箱館の五稜郭(ごりょうかく)で最後まで戦った面々が、幕府の開明派であるところが実に面白い。
 もしも彼らが意地を見せていなかったら、維新後、新政府の顕官の地位は薩長土肥に独占され、敗者の側に身を置いた旧幕府の俊秀たちが、能力を発揮する場はなかったかもしれない。しかし大鳥たちの踏ん張りが、黒田清隆や山県有朋(ありとも)といった薩長の軍人たちを瞠目(どうもく)させ、敗者の側に身を置いた者たちの人材登用の門戸を押し広げることにつながった。
 慶応4年4月、伝習隊を率いて江戸を脱走した大鳥は、3度にわたる下野小山(しもつけおやま)宿での戦闘にいずれも勝利した。この戦いで大鳥は、フランス式用兵の妙を見せつけた。大鳥は類まれな戦術家であり、「戦下手」という評価は結果論にすぎない。
 しかし、兵の補充や武器弾薬の補給が受けられる新政府軍と違い、大鳥軍(伝習隊とその他の合流部隊)は、それもままならない。それでも同行している土方(ひじかた)歳三の活躍で、宇都宮城を奪取したところまでは順調だった。しかしその後、戦慣れした西国雄藩の兵が投入されるに及び、苦戦を余儀なくされる。

 大鳥軍は宇都宮城を奪還され、日光・今市方面まで引いていく。
 2回にわたる今市攻防戦で敗北を喫した大鳥軍は、会津藩の要請に応じ、会津西街道をふさぐべく、小佐越(こさごえ)(鬼怒川温泉)・藤原での持久戦に転じる。
 白河方面での戦闘が激化する中、大鳥は藤原口の守備を任され、大した戦闘もないまま、5月から7月まで100日ほどを過ごす。しかしその間、新政府軍は白河の線を突破し、7月末には二本松城も落ち、会津藩が恃(たの)みとしていた仙台・米沢両藩の挙動が不審になってきていた。
 8月になり、会津藩首脳部の要請を受けた大鳥軍は、石筵(いしむしろ)口(母成(ぼなり)峠)の守備に就いた。二本松城が陥落し、敵が、東方から会津盆地に来襲する公算が大きくなったからである。
 母成峠の防衛陣地は堅固なものだったが、会津藩や大鳥軍を合わせても、せいぜい800ほどでは守りようがない(大鳥軍の多くは日光口等の守備に就いたまま)。
 会津藩首脳部は、敵は白河方面から郡山(こおりやま)を経て、中山口からやってくると思っており、そちらに会津藩主力を配置したのだ。
 しかし新政府軍は8月21日、石筵口を突いてきた。
 兵力が3千と豊富な新政府軍は、石筵口に三方から攻め寄せ、激戦の末、母成峠に設けられた3段にわたる防衛陣地を突破、会津盆地に向かった。これにより大鳥軍は四散した。それでも大鳥は北方の米沢に向かい、補給を受けた上で会津に向かおうとするが、すでに米沢藩は寝返りを決めていた。

 すでに会津城下で戦いが始まったと聞いた大鳥は、補給を受けられないまま会津に向かう。しかし城内と連絡は取れず、戦うにも戦えない。致し方なく大鳥らは仙台に向かったが、仙台藩も恭順に傾いていた。
 万事休した大鳥だったが、ここで榎本武揚と出会う。軍艦4隻と輸送船多数から成る榎本艦隊が、ここまで来ていたのだ。
 やがて会津開城の一報が入った。
 これにより榎本は、蝦夷(えぞ)地(北海道)に逃れることを提案し、大鳥も同意した。かくして大鳥や土方歳三を乗せた榎本艦隊は、一路、蝦夷地を目指すことになる。
 彼らの蝦夷地での戦いは、榎本の回で書きたいと思う。
 大鳥という男の本質は学者であり、極めて合理的かつ科学的な頭脳を持つ。鳥羽伏見の戦いが終わった後、大鳥は彼我の戦力差を検討し、伝習隊なら勝てると思ったに違いない。しかし大鳥とて、歴史の流れには抗(あらが)いようがない。小さな偶然がすべて敵に微笑み、それが大鳥軍の敗戦を招くことが繰り返された。
 それでも大鳥はあきらめない。
 五稜郭が落城する寸前、すべてに絶望した榎本が自ら命を絶とうとしたのとは対照的に、大鳥一人が、皆を鼓舞しながら次善の策を練っていたという。それでも五稜郭は降伏開城し、北方の藩屏(はんぺい)たらんとした榎本や大鳥の夢は潰(つい)えた。

 その後、大鳥は東京に連行されて牢(ろう)に入れられたが、2年半ほどで釈放され、その後は新政府の一員として、清国特命全権公使などの重職を歴任する。
画像
幕臣として戊辰戦争を戦い、維新後は対清国・朝鮮の外交で活躍した大鳥圭介 (国立国会図書館蔵)

 そして明治44(1911)年、大鳥は80年の天寿を全うする。
 「敗者の美学」に最も似つかわしくない男は、自らの能力を使い切り、電池が切れるようにして鼓動を止めた。まさに不屈の男にふさわしい生涯だった。
 大鳥圭介を主人公に据えた拙著『死んでたまるか』は、来年2月、新潮社から発売される。最後まであきらめない男の凄(すさ)まじい生き様を、ぜひご堪能いただきたい。
 次回「石田三成」は11月13日に掲載します。
【プロフィル】作家・伊東潤(いとう・じゅん) 昭和35年、横浜市生まれ。早稲田大卒業後、外資系IT企業勤務、コンサルタントなどを経て、平成19年に「武田家滅亡」で文壇デビュー。25年、「巨鯨の海」で山田風太郎賞受賞。
 ※本連載の完全版は月刊「J−novel」(実業之日本社)で連載中です。


*2014.10.23 産経新聞より
(http://www.sankei.com/life/news/141023/lif1410230018-n1.html)

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
理系で、教育者で、外交官だったわけだね。こういう人材は生き残るね。芸能人で政治家とはちょっと違う。
井出浩司
2015/07/19 05:11
明治政府の偉いところは維新の時の仇敵であっても、才能があれば登用していったところ。榎本武揚もそうだった。
管理人
2015/07/19 16:20

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