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zoom RSS 【敗者烈伝】〜武田勝頼(上)「信玄公より謙信公に似ている」と側近が評した戦国「最強」武将

<<   作成日時 : 2015/06/27 23:19   >>

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 産経新聞で作家の伊東潤さんが日本史の敗者に光を当てる素晴らしい歴史エッセーを連載しています。

 「戦国時代、最強の武将は誰だと思いますか」という質問をされると、迷わず武田勝頼と答えることにしている。それだけ勝頼は、武将として比類がないほど勇敢で有能だった。
 それでは大名としては、どうだろうか。
 信玄の息子であっても、勝頼は当初、武田家の家督継承予定者には入れられていなかった。それゆえ、信玄が乗っ取った信濃国の諏訪家に養子入りさせられる。しかし、謀反の疑いで長男の義信が自害を強要され、次男は失明、三男は早世と不幸が重なり、四男で側室腹の勝頼に、家督が回ってきた。
 ところが勝頼は、山県昌景、馬場信春、内藤昌秀といった信玄股肱(ここう)の宿老たちから、必ずしも当主になることを歓迎されていなかった。
 実は、「勝頼では危なっかしい」と宿老たちが思っていた節がある。
 勝頼は、元服した17歳から当主を継いだ28歳まで、宿老たちと幾多の戦場を共にしてきており、もしも勝頼が、猪(いのしし)武者にとどまらない優秀さを発揮していれば、いかなる理由があれ、宿老たちが反対することもなかったに違いない。
 『甲陽軍鑑』では、勝頼を「強すぎたる大将」と呼び、勝頼側近の安倍加賀守宗貞に「ただ強すぎて今明年(こんみょうねん)の内に討死なさるべきかと存ずる」と案じさせ、勝頼の謀臣・長坂釣閑斎(ながさかちょうかんさい)には、「勝頼様の武辺形儀(ぶへんかたぎ)は信玄公よりも謙信公に似ている」と言わせている。
 つまり勝頼は、破格に勇猛果敢な若武者だったのだ。

 となれば勝頼は、その強みを生かして勝利を重ね、当主としての権威を確立せねばならない。
 ところが信玄死去後の武田家中の混乱に付け入り、天正元(1573)年9月、三河国の徳川家康が、武田方となっていた奥三河の長篠城を奪還した。
 これまでの徳川領における武田方の拠点城は、遠江の犬居と二俣の2城、三河の長篠・田峯(だみね)・作手(つくで)の3城であり、とくに二俣・長篠両城は、それぞれ浜松城と吉田城という家康の生命線に、白刃(はくじん)を突き立てる格好になっていた。
 その一方が攻略されたのだ。反撃に出なければ面目がつぶれる。
 翌天正2年正月、勝頼は東美濃への侵攻を開始、正月から4月にかけて、明知(あけち)城をはじめとした18城を攻略すると、五月には遠江の要衝・高天神(たかてんじん)城を囲んだ。
 城主の小笠原氏助(うじすけ)は寄親(よりおや)の家康に後詰(うしろづめ)を請うが、9里西方の浜松城にいる8千の徳川勢(総兵力1万5千)だけでは、侵攻軍だけで2万から成る武田方に抗すべくもない。それゆえ家康は、同盟している織田信長に後詰を要請する。
 ところが信長は後詰軍の編成に手間取り、ようやく6月になって出陣したものの、浜名湖まで来たところで「高天神城降伏」を知らされる。

 これに気をよくした勝頼は天正3年、いよいよ三河侵攻作戦を開始する。
 三州街道を使って三河国に入った勝頼は、足助(あすけ)城を落とすと、続いて南東に進み、野田城を攻略した。
 勝頼は、浜松・岡崎と並ぶ徳川方の拠点城の一つである吉田城を手に入れることにより、徳川領国を東西に分断しようというのだ。
 しかしこの時、勝頼は、吉田城の東北24キロ余にある長篠城を落とさずに残してきていた。
 そこで5月、道を引き返した勝頼は長篠城を包囲した。ところが勝頼は、積極的な攻撃を掛けないでいた。この時、勝頼は長篠城を囮(おとり)にして家康をおびき出し、無二の一戦に及ぼうとしていたのではないか。
 むろん家康が後詰に来ないと分かれば、長篠城を落としてから吉田城攻撃を再開するか、いったん本国に引き揚げればよい。
 一方、家康から後詰要請を受けた信長は、すぐに動いた。5月13日に岐阜城を発した信長は、浜松で家康と落ち合い、18日には長篠城の西方3キロほどにある設楽ケ原(したらがはら)に着陣した。
 信長は、長篠城を囲む武田勢に打ち掛からず、設楽ケ原に馬防柵(ばぼうさく)をめぐらし、「待ち戦(いくさ)」の態勢を取った。(作家・伊東潤)
【用語解説】武田勝頼
 たけだ・かつより 天文15(1546)年、甲斐(現・山梨県)の戦国武将・武田信玄の四男として生まれる。信玄の死により家督を相続し、東の北条氏と同盟して美濃・遠江・三河に進出するが、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に大敗。その後は衰退が続き、天正10(1582)年の天目山の戦いで一族とともに自刃。
【プロフィル】伊東潤
 いとう・じゅん 昭和35年、横浜市生まれ。早稲田大卒業後、外資系IT企業勤務、コンサルタントなどを経て、平成19年に「武田家滅亡」で文壇デビュー。25年、「巨鯨の海」で山田風太郎賞受賞。
 ※本連載の完全版は月刊「J−novel」(実業之日本社)で連載中です。

*2014.07.24 産経新聞より
(http://www.sankei.com/life/news/140724/lif1407240021-n1.html)

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
長篠の戦い、にしても単純に突撃したわけではない。(新田次郎 武田勝頼)
あそこで、一か八か勝負に出なければ、織田と経済の成長率が違うので、じり貧。
僕でも、どっかで勝負に出たと思う。
この敗戦で、おかしくなってしまったのではないか。
上杉の後継争いへの介入(おだての乱?)は失敗だったと思う。
井出浩司
2015/06/28 11:06
信玄の代の時、義元が打ち取られた時点で、もっと駿河に侵攻して、海を確保しておくべきだった。
管理人
2015/06/28 13:36

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