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zoom RSS 【敗者烈伝】〜今川義元(下)豊富な知識 逆に墓穴 作家・伊東潤

<<   作成日時 : 2015/06/12 21:36   >>

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 産経新聞で作家の伊東潤さんが日本史の敗者に光を当てる素晴らしい歴史エッセーを連載しています。
 桶狭間とは知多半島の付け根、手越川(てごえがわ)が伊勢湾に注ぐ一帯のことを指している。この辺りは、なだらかな丘陵が幾重にも連なる田園地帯で、その間を縫うようにして、北から鎌倉往還、東海道、大高道(おおだかみち)という3本の街道が、ほぼ東西に走っている。
 鎌倉往還と東海道が伊勢湾に達しようとするところに鳴海(なるみ)城が、同じく大高道の出口に大高城が築かれていた。
 永禄3(1560)年、義元は、この2城を策源地として織田家に圧迫を加え、その支配下にある伊勢湾交易網を自らのものにしようとした。
 ちなみに信長の父・信秀は、尾張半国を制していたにすぎないが、伊勢神宮に移築資金700貫文(かんもん)を寄進したり、禁裏修理料として朝廷に4000貫文を上納したりするほどの経済力を持っていた。
 1貫文は現在の10万円くらいの価値があるので、4000貫文は4億円に相当する。とても尾張半国の大名が出せる額ではない。
 つまりそれだけ、伊勢湾交易網の生み出す利益は大きかったのである。
 まず義元は、調略によって在地国人の山口教継(のりつぐ)・教吉(のりよし)父子を傘下に収め、その拠点である鳴海・大高両城と、内陸部にある沓掛(くつかけ)城を手に入れた。

 さらに義元は、敵に通じた廉(かど)で山口父子を粛清した上、鳴海城には岡部元信、大高城には鵜殿長照(うどの・ながてる)という譜代の大身(たいしん)を入れる。
 こうした事態に危機感を抱いた信長は、鳴海・大高両城の奪還を期し、5つの付城(つけじろ)を築き、この2城を包囲した。
 義元は、こうした信長の動きに即座に反応する。
 駿河を出陣した今川勢は2万5千、一方の織田勢は2千とも3千とも言われているが、織田勢が、おおよそ10分の1程度の兵力だったのは間違いない。
 しかし知られている通り、沓掛城から大高城に向けて進軍する途次、織田方の襲撃を受けた義元は、呆気(あっけ)なく討ち死にを遂げる。
 そこには、どのような落とし穴があったのか。
 よく言われるのは、大軍を擁していることから来る義元の慢心である。また、「信長は決戦を仕掛けてこないだろう」という読み違いもあったはずだ。
 兵力差がある場合、正面から野戦を挑んでくる敵などいないというのが、兵法の常識である。とくに武経七書に精通した義元は、敵将もセオリーを知っていると思い込んでいたのではないか。
 豊富な知識が、逆に墓穴を掘ってしまったのだ。

 また、大小の丘陵が幾重にも連なるこの辺りは、特定の道を選んでいけば、敵に知られず、どこにでも出られたと言われている。
 つまり、迂回(うかい)奇襲か正攻法(正面攻撃)かで、よく議論される桶狭間合戦の真相だが、正面奇襲という策も取り得たのだ。
 戦後、信長は義元の首を取った毛利新助よりも、的確に義元側の情報を伝えてきた簗田政綱(やなだ・まさつな)を功第一としたが、政綱は義元の居場所を摑(つか)み、敵に知られずに、そこに至るルートを知っていたのではないだろうか。
 つまり義元は、入ってはいけない死地に駒を進めてしまったことになる。
 それにしても不思議なのは、義元の積極性である。大将たる者、後方に陣取り、最前線が安全なものとなってから、陣を進めるべきだろう。
 この場合、鳴海・大高両城付近から敵が掃討された後、沓掛城を出ればよいわけであり、義元の進軍は、やや性急な気がする。
 義元には、何らかの焦りがあったのではないだろうか。
 それが何か分かった時、この合戦の実像が見えてくる。
 義元が手にしたかったのは、織田家の財源になっている伊勢湾交易網だが、その交易によって確保したかったのは、焔硝(えんしょう)(火薬)ではなかったか。
 すなわち、この頃から合戦における鉄砲の重要性が高まり、東国の大名たちも、鉄砲や弾丸を求め始めている。

 鉄砲や弾丸だけなら内製化という道もあるのだが、問題は内製できない焔硝である。
 伊勢湾を押さえることで、堺を経由して東国に流入する焔硝を自由に入手でき、鉄砲が主となるこれからの戦を優位に進められる。
 仮定の話だが、大高城には、堺から運ばれてきた大量の焔硝が貯蔵されており、それを敵の手に渡してならじという焦りが、義元に生じていたとは考えられないだろうか。
 しかし、いかに推理してみたところで、真相は闇の中である。
 信長は、細い糸を手繰(たぐ)り寄せて大きな勝利を手にし、義元は勝てる戦を落とした上、命までも失った。
 これにより、信長の声望は天を衝(つ)くばかりとなり、天下人への道が開ける。
 一方の今川家は滅亡への道をひた走ることになる。
 人の運命とは過酷である。いつの時代も油断は大敵なのだ。
 次回「西郷隆盛」は5月29日に掲載します。
 ※本連載の完全版は月刊「J−novel」(実業之日本社)で連載中です。

*2014.05.08 産経新聞より
(http://www.sankei.com/life/news/140508/lif1405080023-n1.html)

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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
奇襲のポイントは、「情報の秘匿」。「本能寺」「真珠湾」はこれの最たるもの。よく考えると、「ばれなかった」のはすごい。桶狭間は「情報の秘匿」ストリーに入ってない。奇襲じゃないっていう学者がいるんだと思います。
井出浩司
2015/06/13 16:24

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