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zoom RSS 【敗者烈伝】〜今川義元(上) 「海道一の弓取り」たった一度のミスが 作家・伊東潤

<<   作成日時 : 2015/06/05 21:39   >>

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 産経新聞で作家の伊東潤さんが日本史の敗者に光を当てる素晴らしい歴史エッセーを連載しています。

 人に運不運は付き物である。しかし、たった一度のミスが取り返しのつかないものになってしまった人は、歴史上でもまれである。
 その一人こそ、「海道一の弓取り」とたたえられ、駿河・遠江・三河、さらに尾張の一部の4カ国にまたがる大帝国を築いた今川義元である。
 永正16(1519)年、駿河国の守護大名・今川氏親(うじちか)の五男(正室腹三男)として、義元は生まれた。
 当初は家督を継ぐと思われておらず、4歳の時、善得寺(ぜんとくじ)という禅寺に入れられる。
 父の氏親は、京都から太原雪斎(たいげん・せっさい)という高僧を招き、義元の師に据えた。これが、後々まで義元の運命を左右することになる。
 享禄3(1530)年、義元は出家得度し、栴岳承芳(せんがく・しょうほう)という法名を名乗る。この時、すでに父の氏親はなく、家督は長兄の氏輝が継いでいた。
 承芳の運命を変えたのは、天文(てんぶん)5(1536)年の氏輝の死である。しかも同日に、次兄の彦五郎も死去しており、この時、何らかの政変が起こった可能性が高い。

 実は、このあたりの経緯については史料を欠いており、事実は分かっていない。しかしその後の動きから、今川家中で独立的勢力を保持していた福島正成(くしま・まさしげ)が、政変を起こしたというのが定説となっている。
 正成は氏親三男の玄広恵探(げんこう・えたん)の岳父にあたり、恵探を家督に就けるべく、氏輝と彦五郎を殺したというのだ。
 一方、氏輝、彦五郎、承芳3人の実母である寿桂尼(じゅけいに)は、太原雪斎と手を組み、承芳の擁立を図る。
 これにより勃発したのが花蔵(はなくら)の乱である。
 18歳の承芳は、この戦いを勝ち抜き、還俗(げんぞく)して家督を継ぐことになった。
 今川義元の誕生である。
 義元を支えるのは軍師役の雪斎と、女戦国大名と呼ばれた母の寿桂尼である。
 この時の今川家にとっての脅威は、北に国境(くにざかい)を接する武田信虎だった。
 それゆえ翌天文6年、義元は(実際は雪斎)甲斐の武田信虎と攻守同盟を締結、その娘を正室に迎える。しかし武田氏は、相模の北条氏とは不倶戴天(ふぐたいてん)の敵であり、これに怒った北条氏綱は駿河に出兵、富士川以東を占拠した。
 河東一乱(かとういちらん)である。
 しかし義元と雪斎の戦略は、武田・北条両家と良好な関係を築き、西進策を進めることにあった。

 紆余曲折(うよきょくせつ)の末、天文23年、雪斎は三者に働きかけ、甲相駿(こうそうすん)三国同盟を締結させた。
 これにより義元は、西方への勢力拡大に集中できるようになる。
 義元には、足利家親類衆として室町幕府を軍事的に支えるべく、京への経路を確保しておくという狙いがあった。
 上洛時に邪魔になるのは尾張国の織田家だけであり、織田家さえ屠(ほふ)れば、幕府に一朝(いっちょう)事(こと)ある時、すぐに上洛の途に就ける。
 かくして桶狭間への道は開かれた。(次週に続く)

【用語解説】今川義元
 いまがわ・よしもと 戦国時代の武将。駿河・遠江(現代の静岡県)守護の今川氏親の子として永正16年に生まれ、兄の死により家督を継ぐ。内政・外交ともに手腕を発揮して領国を安定させる。北の武田氏・東の北条氏と同盟を結び、西への勢力拡大を企図。永禄3年、大軍を率いた尾張攻めの最中に織田信長に敗れ(桶狭間の戦い)、討ち死にを遂げた。

【プロフィル】伊東潤
 いとう・じゅん 昭和35年、横浜市生まれ。早稲田大卒業後、外資系IT企業勤務、コンサルタントなどを経て、平成19年に「武田家滅亡」で文壇デビュー。25年、「巨鯨の海」で山田風太郎賞受賞。

 ※本連載の完全版は月刊「J−novel」(実業之日本社)で連載中です。

*2014.05.01 産経新聞より
(http://www.sankei.com/life/news/140501/lif1405010034-n1.html)

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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
名将だったっていう説が強いよね。
ま、日本の歴史は司馬遼太郎が作ったからね。
そもそも、桶狭間で奇襲なんてできません。
尾張は豊かで、ほぼ互角の戦力だったのが、桶狭間、ってNHKではやってたよ。
井出浩司
2015/06/07 10:46

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