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zoom RSS 【敗者烈伝】〜平清盛(上) 頂点から全てを失った典型 作家・伊東潤

<<   作成日時 : 2015/05/23 15:49   >>

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 産経新聞で作家の伊東潤さんが日本史の敗者に光を当てる素晴らしい歴史エッセーを連載しています。

 人は、なぜ敗れるのか。それは、相手が勝つべくして勝ったというよりも、自らに敗因があることの方が多い。
 今月から、日本史上における典型的敗者について語っていこうと思う。とくに敗因について詳しく分析することで、何かの役に立てていただければ幸いと思う。
 敗者にもいろいろあるが、その到達した頂(いただき)が高ければ高いほど、敗者となって、すべてを失った時の落差は大きい。
 平清盛とその一門こそ、その典型であろう。
 清盛が生まれたのは、永久6(1118)年正月18日とされる。この頃は白河院の院政全盛時代で、祖父の正盛は院の使い走りにすぎず、父の忠盛も23歳という若さで、いまだ武士の地位は低かった。
 つまり、伊勢平氏(以下、平家)が勃興しようとしている矢先に、清盛は誕生した。
 しかも清盛は白河院のご落胤(らくいん)であり、それを忠盛が、自らの子として育てたという説まである。
 清盛ご落胤説は永遠の謎だが、いずれにせよ、白河院に優遇された平家は興隆していく。
 順調に位階を上げていった清盛は、保元元(1156)年、摂関家の後継者争いに端を発した保元の乱において、後白河帝方に付いて勝利に貢献する。その論功行賞では、一門として4カ国もの知行国を得、清盛自身は正四位下まで昇進した。
 この時、河内源氏の棟梁(とうりょう)・源義朝も後白河帝に味方し、武家台頭の素地が作られる。しかし摂関家の武力が壊滅し、平家と源氏が武力を独占することになり、両者の間に確執が生まれていく。

 保元の乱の結果、政界を牛耳るのは信西(しんぜい)という下級公家出身の男になった。この信西の独裁政権を軍事面で支えたのが清盛である。
 この体制に反発したのは、後白河院近臣の藤原信頼(のぶより)と、保元の乱の恩賞で清盛に水を開けられた義朝である。
 平治元(1159)年12月、突如として旗揚げした信頼と義朝は、後白河院と二条帝を確保すると、信西を自害に追い込んだ。
 政変は成功したかに思われたが、内裏をめぐって合戦が行われ、信頼と義朝は清盛に敗れて敗走する。その後、信頼は捕まって斬首刑となり、義朝は与党の裏切りに遭って命を落とす。これにより院近臣勢力と源氏は、壊滅的な打撃をこうむった。
 しかしこの時、せっかく捕らえた義朝の息子たちを殺さなかったことが、後に禍根となる。
 しかも三男で14歳になる頼朝を、源氏の勢力基盤がある東国に配流したことは、取り返しのつかないミスだった。
 むろんそれは後のことで、平治の乱の結果、平家は武力を独占する。
 しかも保元・平治の両乱を通じて、清盛は自らの野心を満たすために、先に仕掛けたわけではない。そのため、この頃の公家社会での評判は上々だった。
 清盛は3階級特進して正三位が下され、武家としては異例の公卿(くぎょう)となった。また平家一門の台頭も著しくなる。

 それを危惧したのは後白河院である。この頃から2人の確執が始まる。
 それでも当初は、後白河院から息子の二条帝に権力が移譲されつつあり、二条帝の乳父(めのと)である清盛が政界を牛耳っていた。
 しかし永万元(1165)年、二条帝が23歳でこの世を去ることにより、両者の関係が急速に悪化する。
 そうしたことに嫌気が差したのか、仁安2(1167)年、人臣として最高職の太政大臣となった清盛は、その座を3カ月で辞して政界から身を引き、福原(神戸)に居を移して日宋貿易の陣頭指揮を執り始める。
 一方、清盛が政界から遠ざかるにつれ、後白河院は露骨な贔屓(ひいき)人事で自らの与党を出世させ、独裁的院政を布こうとした。
 しかも清盛の後継者である重盛は病弱な上、皇室を敬うこと一方でなく、清盛は政界に復帰せざるを得なくなる。
 こうした最中に鹿ケ谷事件が起こる。 (続く)

【用語解説】平清盛
 たいらのきよもり 平安末期の武将。永久6年に伊勢平氏の棟梁・平忠盛の長男として生まれ、大治4年に従五位下に叙任。以後昇進を重ね、平治元年の平治の乱で反対勢力を一掃する。仁安2年、太政大臣。娘を高倉天皇に入内させ、一門で官職を独占。治承元年の鹿ケ谷事件をきっかけに後白河法皇を幽閉し、国政を完全掌握。だが次第に反平氏勢力が台頭し、諸国の源氏の挙兵に応戦する最中、養和元年に病没。

【プロフィル】伊東潤
 いとう・じゅん 昭和35年、横浜市生まれ。早稲田大卒業後、外資系IT企業勤務、コンサルタントなどを経て、平成19年に「武田家滅亡」で文壇デビュー。25年、「巨鯨の海」で山田風太郎賞受賞。

 本連載は、実業之日本社の小説誌「J−novel(ジェイ・ノベル)」で昨年9月号から連載中の歴史エッセーのダイジェスト版になります。

*2014.04.03 産経新聞より
(http://www.sankei.com/life/news/140403/lif1404030012-n1.html)

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
平清盛ですか。僕は長男が早世しちゃったのが問題だと思う。15代も続いた徳川ってすごいよね。
井出浩司
2015/05/23 19:03
重盛早逝のあとも継いだ弟の宗盛が凡庸だったからね。四男の新中納言知盛、「子午線の祀り」よかった。
管理人
2015/05/24 14:51

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